概要
生没年:光仁元年(1224年) - 寛元4年(1246年)閏4月1日
鎌倉幕府・第4代執権。第3代執権・北条泰時の嫡男・北条時氏と、安達景盛の娘(松下禅尼)との間に嫡男として生まれる。幼名は藻上御前(藻上丸)。同母弟に北条時頼(第5代執権)がいる。
父・時氏の早逝により早くから北条氏本家(得宗家)の後継者と目され、祖父・泰時の死後に執権職を受け継ぐが、若年ながらも幕政を預かるという重責と多忙とに加え、本家への反抗姿勢を度々露わにしていた分家・名越流や、親政を志向しつつあった時の将軍・九条頼経とその一派らとの軋轢にも大いに悩まされながらの政権運営となった。結果在任わずか4年にして病に倒れ早逝、弟の時頼がその跡を継ぐ事となる。
その在任期間の短さに加え、合議制による執権政治を軌道に乗せ人格面でも高い評価を受けた祖父・泰時と、時に強硬な処置に及びながらも質実剛健な名君と謳われた弟・時頼、この二人の間に挟まれていることもあってか、歴代執権の中でも今一つ評価に恵まれない節も見られる。
信憑性に難こそあるものの、三浦氏と小山氏の喧嘩に際して経時と時頼がそれぞれとった処置の逸話において、経時の慎重さに欠ける面が強調されている辺りも、後世における経時の評価の芳しくなさに拍車をかけているのかも知れない。
生涯
父・時氏は経時が生まれた同年より六波羅探題北方を務め、祖父・泰時の後継者として期待を寄せられていたものの、寛喜2年(1230年)、経時が7歳の時に病に倒れ鎌倉で死去。またその3年前には叔父の時実(時氏の弟)も暗殺されていた事から、祖父・泰時は幼い経時に若狭守護職(生前の父も同職を務めていた)を務めさせたり、仁治2年(1241年)には18歳で評定衆に列せられるなど、早くから北条氏本家の後継者としての立場を確立しようと腐心していた。
その翌年に祖父・泰時が死去すると、経時は弱冠19歳にして執権に就任、大叔父で北条氏の重鎮・北条重時らが政権を支える体制が取られた。一方、それに先立つ仁治元年(1240年)には長年連署を務めていた北条時房も死去しているが、後任が置かれることはなかった。ともあれ有能な補佐に恵まれた事もあり、就任当初の経時の政権運営はそこまでの波乱も無く行われ、この間に行われた訴訟制度やそのプロセスの簡略化・正確化といった施策は、続く時頼の代での引付衆の設置にも繋がった。
しかし一方で、経時政権の周辺には様々な敵対勢力も存在していた。一時は嫡流と目されながら庶家に甘んじる事となった名越流北条氏はその最たるものであり、祖父の代よりしばしば不穏な動きを見せていた。また三浦氏・千葉氏など北条氏と競合する立場にあった有力御家人らも、表向き北条氏と協調関係を取りつつも隙あらばこれに取って代わる機会を狙っていた。
そしてもう一つ、侮りがたい存在であったのが4代将軍・九条頼経であった。経時にとって立場上の主君に当たるとはいえ、既にこの頃の将軍職は名目上のものでしかなくなっていたが、長ずるに至って将軍親政を強く志向し出した頼経は、前出の名越流や三浦氏などの反執権勢力を糾合し、一大勢力を形成しつつあったのである。
こうした反執権勢力の蟲動に対抗すべく、経時は寛元2年(1244年)に頼経を将軍職から強引に退け、その後継として当時わずか6歳の頼経の子・頼嗣を5代将軍に据えている。さらに翌寛元3年(1245年)には頼嗣に妹の檜皮姫を嫁がせ、頼嗣の外戚として後見役としての地位を獲得するなど、反執権勢力の抑え込みにかかっている。
しかしその後も頼経は頼嗣の後見として鎌倉に留まり続け、幕府内にて隠然たる影響力を示し続けており、一時は京都への送還も検討されたものの諸事情により頓挫している。さらに評定衆の中にも三浦光村ら反執権派の御家人が加えられたりと、必ずしも経時の狙い通りに事が進んだわけではなかった。
そもそも経時の元服に際して頼経が烏帽子親を務めたり、将軍に近侍する小侍所の所司を経時が務めていた事もあったという経緯から、頼経に対しては強硬な手段に出辛い立場にあったのも事実であり、こうした頼経との関係性に対する不満が後述の執権交代にも繋がったのではないか、という見方も存在する。
こうした激務や軋轢による心労が祟ってか、寛元3年(1245年)頃より度々病に伏せるようになり、弟の時頼を名代に立てる事が多くなった。翌寛元4年(1246年)の春に入ると病状はさらに深刻化、3月下旬には自邸で重大秘密会議(「深秘の御沙汰」)が行われ、時頼への執権職の継承などが取り決められたとされる。
この会議の直後に執権を辞任し出家、そして一月あまり後の閏4月1日に23歳の若さで逝去した。経時の逝去に伴い、前述の会議での決定通り時頼が執権に就任。また経時の遺児である男子2人も出家したため、以降の得宗家嫡流は時頼の系統へと移ることとなる。
経時の早逝は、前述の頼経一派による反乱未遂事件(宮騒動)の発生と時頼による迅速な事態の収拾、そしてこれに伴っての頼経一派の排除という結果に繋がったが、名越流を始めとする反執権勢力との対立は以降もなお続く事となる。
創作物での扱い
大河ドラマ『北条時宗』
物語開始時点ですでに亡くなっているため、作中に本人こそ登場しないものの、初回での松下禅尼のセリフや、第10回で時頼が彼の息子3人に自分の命が残りわずかであることを伝えるセリフの中に登場している。
前者では幕府第5代将軍・九条頼嗣に嫁いだ妹・檜皮姫が何者かに毒を盛られ、その症状に苦しんだ末に死去。彼女がその症状に苦しんでいる最中、母の松下禅尼は時頼に「そなたの兄も毒を盛られて命を落としたばかりではないか」と発言しており、このことから作中での経時の死因は毒殺だったことがわかる。
また時頼も、息子たちが成長した後に自身の命を縮めた原因不明の病の症状が、前述の経時や檜皮姫のものと全く同じだったことから「確かな証はないが、何者かに毒を盛られたらしい」と話している。