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北条時頼

ほうじょうときより

北条時頼とは、鎌倉期の武将・政治家。鎌倉幕府第5代執権として、北条得宗家による専制と撫民政策を推し進めた名君としての側面や、廻国伝説など様々な逸話でも知られる。(1227年-1263年)
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概要編集

生没:安貞元年5月14日(1227年6月29日)-弘長3年11月22日(1263年12月24日)

別名:戒寿(幼名)、道崇(法名)、最明寺殿

官位:正五位下、相模守


北条氏の本家たる得宗家の当主にして、鎌倉幕府第5代執権

北条時氏(第3代執権・北条泰時の長男)と、安達景盛の娘(松下禅尼)の間に生まれた次男で、同母兄に経時(第4代執権)、子息に時輔(庶長子、六波羅探題南方)、時宗(第8代執権)、宗政宗頼らがいる。


質素かつ堅実な人物であり、様々な情勢や現実的理由によるところも大きいとは言え、民衆に対する善政(撫民政策)を敷いた事から、同時代から現代に至るまで名君として高く評価されている事でも知られる。

また宗教に対しても厚い面があり、若かりし頃には曹洞宗の開祖である道元を鎌倉へ招いて教えを請うたり、南宋から僧を招いて建長寺を建立するなど、とりわけ禅宗に対する帰依の度合いは相当なものがあったと見られている。


前述した撫民政策は、時頼が進めた従来の権力者の追放活動、即ち得宗専制の強化と結合して解釈されたようで、後述のの『鉢ノ木』などに代表される、時頼が全国を行脚して貧民を保護し、悪しき権力者を追放して廻ったという廻国伝説は、このような経緯から成立し後世に残ったという(入間田宣夫「時頼の廻国伝説について」『中世の鎌倉を語る』)。

以下に廻国伝説の代表たる『鉢ノ木』の大意を引用する。後世に武家の名君としての時頼像、御恩と奉公の典型例として残った物語である。


鉢の木物語編集

下野国佐野に佐野源左衛門常世という貧しい武士がいた。ある寒い夜、旅の僧侶が降りしきる大雪に見舞われて立ち往生し、一夜の宿を求めて常世の家を訪れた。


常世は火を起こすすら足りない苦しい生活を送っていたが、寒さに凍えた僧をもてなすため薪をくべて暖を取ってくれた。しかし乏しい薪はすぐに尽きる。常世は驚く僧の制止を振り切り、秘蔵の鉢植えの盆栽をも燃やして旅の僧をもてなした。常世が語るには、一族に騙され、所領を全て奪われて苦しい生活をしているとのこと。だが古びた甲冑と痩せたはまだ残っている、いざ鎌倉に一大事があれば必ず駆けつけると、常世は語気を強めた。


後日、鎌倉から武士たちに召集がかかった。痩せ馬に乗ってかけつけた常世が謁見した執権の北条時頼は、なんとあの夜の旅の僧と同一人物であった。時頼は常世の忠義を讃え、常世の所領が騙し取られたという件は常世の言い分が正しい旨の調べがついたと言い添える。時頼は常世に所領を返還してやり、また雪の夜のもてなしへの褒賞として新たな所領も加増した。


生涯編集

幼少期編集

父・時氏が六波羅探題北方在任中に設けた子で、母からは倹約の大切さを学んだという。時氏の在京は実に6年に及んだが、時頼が4歳となった寛喜2年(1230年)、病を得て職を辞した後鎌倉に帰着、そのまま6月18日に28歳の若さで帰らぬ人となった。これ以後、時頼は兄・経時とともに、祖父・泰時の薫陶を受けて育てられたと伝えられている。

元服し時頼と名乗ったのは嘉禎3年(1237年)、11歳の時である。この頃から既に時頼の聡明さは広く知られるところであり、真偽については議論の分かれるところであるものの、翌年三浦氏と小山氏との間で発生した乱闘騒ぎにおいて、兄の経時が三浦氏を擁護しその軽率さや不公正さを咎められたのに対して、いずれにも与する事なく静観を通した時頼は、その思慮深さを祖父・泰時より称賛されたとの逸話が残されている。


その祖父が仁治3年(1242年)に逝去し、兄の経時が若年ながら執権職を継ぐ中で、時頼も順調に官位昇進を重ねていくが、一方で寛元3年(1245年)頃より、鶴岡八幡宮の大鳥居の検分など本来執権が行うべき重要な職務を行う機会も発生している。というのもこの頃既に経時は病がちで、前述の検分も時頼が執権の職務を代行したものであると考えられており、病状がさらに悪化した翌年には、北条氏の一門や重臣達による「深秘御沙汰」と呼ばれる秘密会議の末に、経時から時頼に執権職を譲る事が決定されたという。

この執権職譲渡については、当時得宗家との関係が悪化していた幕府将軍・九条頼経への対応を巡る不満から、時頼を始めとする得宗家の一派によって強引に引退に追い込まれたとする見解も根強く残る一方、そもそも執権職譲渡自体が経時の発案によるものであり、また当時の時頼に執権職を左右する程の政治力はなかったとする反論も存在する。


執権就任編集

ともあれ、存命中に時頼の執権就任が既定路線となったのを見届けると、それから間もなく経時は23歳の若さで病没。これを受けて時頼は事前の決定通り第5代執権に就任するが、前出の九条頼経や、これを担いでいた有力庶家の名越流、それに幕政の中枢を担っていた評定衆の面々は、時頼の執権就任に対し不満と反感を募らせていた。

そしてそれが表出したのが、執権就任から間もない寛元4年(1246年)5月に発生した宮騒動である。これは頼経の側近であった名越光時が、頼経を擁した軍事行動を企てたものであるが、時頼は機先を制してその企てを挫き、光時ら将軍側近を処断したのみならず、頼経の京都送還を断行、就任早々に迎えた危機を逆に自らの地位の確立に繋げる格好となった。

またその後もなお幕府内で燻り続ける有力御家人らの反発を抑えるべく、翌宝治元年(1247年)には安達氏との連携の元、当時の有力御家人の筆頭でもあった三浦一族を鎌倉での武力衝突の末に破り(宝治合戦)、さらにその縁者であった千葉一族も追討、これらを族滅へと追いやっている。

これらの動きによって、幕府内から反得宗勢力を概ね一掃した時頼は、以前からの得宗家内での私的会議である「寄合」をさらに推し進め、それまで幕政の最高機関であった評定衆に代わって寄合が幕政の重要事項を決定する機会も増えるなど、北条得宗家による専制がさらに強化される事となった。


建長元年(1249年)、「引付(ひきつけ)衆」を評定の下に設置。これは御家人の領地争いに関する訴訟の迅速・公正化を図るためのものであった。また建長4年(1252年)には、前年末に発覚した謀反の企てに関与したとして5代将軍・九条頼嗣(頼経の嫡男)を廃し、新たに京都より宗尊親王後嵯峨上皇の皇子)を6代将軍として迎えた。

さらに建長5年(1253年)には、庶民の生活を保護する政策、すなわち「撫民」を開始し、御成敗式目にも次のような法令を追加する。

「民が大金を盗んでも、罪は本人のものであり妻子を罪に問わないこと」「民と掴みあっても、武士に怪我がなければ、民を罰してはならない」

これに違反した武士は厳しく罰する事とした。禅宗を振興して武士に慈悲や寛容の心を求めたことも含め、これらの時頼の政策は武士が単なる略奪者から統治者へと変わっていく転機になったとも評価される(『NHKさかのぼり日本史 北条時頼 万民統治への目覚め』)。

他方で、こうした施策の数々は得宗家による専制・独裁色の強化に対する、御家人たちからの不満を抑えるための融和政策であったと見る向きもあり、同時に家柄や血統のみでは不足であった北条得宗家による支配の正当性を、これらの「善政」を強調する事で補おうとした表れであったとも考えられている。


晩年編集

康元元年(1256年)頃より、内々に出家に向けた準備を進めていた時頼であったが、同年9月に流行病である麻疹に、さらに11月には赤痢に罹患。これらは奇跡的に快復を見たものの、相次ぐ重病を受けて時頼は出家の決意を固め、義兄である北条長時北条重時の嫡男)に執権職を始めとする様々な役職、それに邸宅をも譲渡するに至った。


もっとも、この執権職譲渡と出家については、あくまで後継者が自身の嫡男・正寿(後の時宗)である事を明確化し、事実上の院政体制を構築したのみに過ぎず、新執権の長時も結局のところ、正寿が無事に成長するまでの眼代、即ち代理人に過ぎなかったと考えられている。

実際、その後も幕政の実権はなおも時頼の掌握するところであり、幕府恒例の儀式の取り仕切りも全て時頼の手によって行われるなど、あくまで幕府の最高権力者は時頼であるというこの状況は、執権や連署といった幕府の重要な役職の形骸化の第一歩と言えるものでもあった。


康元2年(1257年)から翌々年までの間に、時宗や宗政が相次いで元服を果たすと、弘長元年(1261年)には子息らの序列を定め、正室所生の時宗と宗政を上位に置く一方で、庶長子たる時輔をその下において徹底的に差をつける事で、後継者争いの芽を未然に摘む試みもなされている。

このように次代を見据えた取り組みにも熱心であった時頼だが、弘長3年(1263年)頃より再度体調を崩していたようで、11月に入るとさらに病状が悪化、11月22日に37年の生涯を閉じた。時頼の死から半年あまり後には北条長時も病没し、その後北条一門の長老格であった北条政村による中継ぎを経て、文永5年(1268年)にようやく時頼の意向通り、時宗が第8代執権に就任する事となる。


創作物における北条時頼編集

NHK大河ドラマ北条時宗編集

(演:渡辺謙

同作は、主人公である時宗が生まれる前に起きた宝治合戦を物語の起点としており、時頼は時宗が13歳(和泉元彌)になるまでの主人公の役割も担っていた(実際OPのクレジットも、時宗が本役である和泉に交代するまでは、時頼役の渡辺がトップに来ていた)。

その宝治合戦では「一度は死んだ身」として僅かな供を連れ、鎧を着用せずに奮闘し勝利をおさめるが、この時三浦方についていた正室・涼子の実父である毛利季光を自刃に追い込み、その結果涼子からは「父の仇」として、死の間際に和解するまで恨まれることになる。

流行病に倒れ、北条長時に執権の座を譲って出家した後もなお、最高権力者として力をふるい続ける一方、前述の廻国伝説を汲んでか、幼い時宗を連れて旅に出るという展開も描かれた(この旅の道中では、『鉢の木』を元にしたエピソードも取り上げられている)。


時宗が自らの跡取りとして大きく成長し、初めて寄合で将軍の上洛阻止に成功したのも束の間、彼の兄弟である経時や檜皮姫と同じく何者かに毒を盛られてしまう(同作独自の設定として、彼ら兄妹はいずれも毒殺されたという事になっている)。自らの死期を悟った時頼は、時輔、時宗、宗政を呼び、3つの遺言を伝えようとするが、このうち「自分に毒を持った下手人を探すな」「兄弟皆の力を合わせ、自らのさだめを全うせよ」の2つまでを伝えたところで容態が悪化してしまう。

時輔を殺せ 静止画Ver.

やがて死の間際になって、ただひとり呼び出された時宗に対し、時頼は残る3つ目の遺言「長時を殺せ」、そして時宗だけへのもう一つの遺言「時輔を殺せ」を伝え、「鎌倉は夢の都じゃ・・・。」と呟き静かに息を引き取った。この壮絶な死に様と遺言は時宗のみならず、視聴者にも多大なる影響を及ぼし、死してなお物語上に存在感を示し続けることになる。

また、この臨終のシーンを表現するため、演者の渡辺は銅と金のファンデーションを使い、顔を金に染め、目も特殊なコンタクトレンズを使用するなどこだわり抜いた演出がなされている。


北条時頼を演じた俳優編集

日蓮』 1979年 映画 演:六代目 市川染五郎(九代目 松本幸四郎

『北条時宗』 2001年 テレビドラマ(NHK大河ドラマ)演:渡辺謙

『禅 ZEN』 2009年 映画 演:藤原竜也


関連タグ編集

鎌倉時代 鎌倉幕府 北条時宗


阪口珠美:詳細不明だが、母方の祖先が時頼であることを明かしている。

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