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北条時頼

ほうじょうときより

鎌倉幕府・第5代執権。第8代執権・北条時宗の父。
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概要

生没年 安貞元年(1227年)5月14日~弘長3年(1263年)11月22日
 鎌倉幕府北条氏得宗・第3代執権北条泰時の子・時氏を父に、安達景盛の女(松下禅尼)を母として生まれる。同母兄として第4代執権・北条経時(元仁元年(1224年)~寛元4年(1246年))が、子に「二月騒動」(文永9年(1272年))に連座して処刑される庶長子・時輔、後に第8代執権となる嫡男・時宗宗政宗頼らがいる。

父・北条時氏

 父・時氏は、建仁3年(1203年)、北条氏得宗・北条泰時の嫡男として生まれた。
 六波羅探題北方を務めていた父・泰時の後を受け、元仁元年(1224年)6月、後任の北方に就任するため上洛、南方に就任した北条時盛とともに京の都の治安維持、朝廷の監視に努めた。
 時頼は父・時氏の在任中、安貞元年(1227年)5月、京において生まれ、母・安達景盛の女の次男として生まれ、母から倹約の大切さを学んだという。
 父・時氏の北方在任は6年に及んだが、寛喜2年(1230年)、病を得て辞任、鎌倉に帰着後、6月18日、28歳の若さで死去した。
 これ以後、時頼は兄・経時とともに祖父・泰時の薫陶を受けて育てられたと伝えられている。
 

第4代執権・北条経時

 仁治3年(1242年)、第3代執権を務めていた祖父・泰時が死去し、経時は父・時氏が早世したこともあり19歳の若さで執権に就任、しかし、経時は就任と同時に第4代・将軍・藤原頼経(九条頼経)との主導権争いにあたらざるをえない状況に置かれた。
 頼経は、承久元年(1219年)、わずか2歳で鎌倉に迎えられ、嘉禄元年(1225年)、後見役を務めていた北条政子(初代将軍・源頼朝の正室)の死により8歳で元服、嘉禄元年(1226年)、9歳で将軍職に就いた。もとより、頼経は将軍不在を解消し、幕政を正当化するために傀儡として迎えられたものであり、幕府上層部に実権を渡すつもりはさらさらない。
 しかし、頼経も長ずるに及んで北条氏の傀儡であることに不満を抱き権力欲にとらわれる。頼経のまわりには、反得宗である北条氏重鎮・名越光時や、三浦氏、千葉氏などが集まり一種の派閥を形成した。北条氏がこのような動きを看過するはずがない。寛元2年(1244年)、執権・北条経時は強引に頼経を将軍職から退かせ、代わってわずか6歳の頼経の子・頼嗣を元服させ次の将軍に就けるが、頼経はこれ以後も頼嗣の後見として鎌倉にとどまりつづけた。

時頼、執権に就任

 寛元4年(1246年)閏4月、兄・経時が病に倒れ、時頼が執権に就任する。この機に乗じて名越光時は頼経を奉じて得宗打倒に動いたがすぐに鎮圧され、光時は所領を没収され伊豆に配流、頼経派の多くも処罰され、頼経自身もこの事件の結果、京に追放されることとなった。(宮騒動)
 また、京においても処罰が行われ、「関東申次(かんとうもうしつぎ)」という朝廷と幕府の連絡役にあたる職に就いていた頼経の父・藤原道家(九条道家)はこの職を罷免され、これ以降、この職は西園寺家に置かれることとなった。
 宝治元年(1247年)、北条氏の挑発を受けて頼経の鎌倉帰還に動いていた有力御家人・三浦氏が挙兵、三浦一族の多くは合戦に敗れて自害した(宝治合戦)。この間にも時頼は、「寄合(よりあい)」という私的会議を開き、重要事項を決定するなど、北条氏による専制を推し進めていく。
 また、宝治合戦終結後、六波羅探題北方を務めていた一門の重鎮・北条重時連署に招聘、重時の娘・葛西殿を正室に迎える。
 建長元年(1249年)、土地関係の訴訟を審議するための「引付(ひきつけ)」を評定の下に設置。
 建長3年(1251年)、正室・葛西殿との間に嫡男・正寿(後の8代執権・北条時宗)生まれる。
 建長4年(1252年)、後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王を新たな将軍として迎え、現・将軍の藤原頼嗣(九条頼嗣)を罷免し、京に追放する。(ちなみに帰洛した頼経・頼嗣父子は同年京の都で相次いで亡くなっている)
 建長5年(1253年)、領民の生活を保護すべしすなわち「撫民」という政策を開始し、御成敗式目に次のような法令を追加する。「民が大金を盗んでも、罪は本人のものであり妻子を罪に問わないこと」「民と掴みあっても、武士に怪我がなければ、民を罰してはならない」違反した武士は厳しく罰することとした。禅宗を振興して武士に慈悲や寛容の心を求めたことも含め、これらの時頼の政策は武士が単なる略奪者から統治者へと変わっていく転機になったとも評価される(『NHKさかのぼり日本史 北条時頼 万民統治への目覚め』)。
 康元元年(1256年)、病を得て執権職を一族の北条長時に譲るが、実権は北条氏得宗の時頼が握っており、長時の役割は嫡男・時宗が成長するまでのつなぎに過ぎなかった。
 弘長3年(1263年)11月22日に死去、享年35歳。
 

嫡男・時宗、第8代執権に就任

 文永元年(1264年)7月、第6代執権・長時が病を得て出家(8月に死去)し、一門の長老・北条政村が第7代執権に就任、時宗は連署に就任する。
 文永5年(1268年)正月、元から服属を求める使者が来日するなか、3月、時宗が執権、執権を務めていた政村が連署に就任し、未曽有の国難にあたることとなった。

伝説

時頼の撫民政策は、時頼が進めた従来の権力者の追放活動(=得宗専制強化政策)と結合して解釈されたらしい。こうしての「鉢ノ木」に代表される、時頼が全国を行脚して貧民を保護し悪しき権力者を追放して廻ったという時頼廻国伝説が後世に残ったという(入間田宣夫「時頼の廻国伝説について」『中世の鎌倉を語る』)。以下に廻国伝説の代表たる「鉢ノ木」の大意を引用する。後世に武家の名君としての時頼像、御恩と奉公の典型例として残った物語である。

鉢の木物語

下野国佐野に佐野源左衛門常世という貧しい武士がいた。ある寒い夜、旅の僧侶が降りしきる大雪に見舞われて立ち往生し、一夜の宿を求めて常世の家を訪れた。

常世は火を起こすすら足りない苦しい生活を送っていたが、寒さに凍えた僧をもてなすため薪をくべて暖を取ってくれた。しかし乏しい薪はすぐに尽きる。常世は驚く僧の制止を振り切り、秘蔵の鉢植えの盆栽をも燃やして旅の僧をもてなした。常世が語るには、一族に騙され、所領を全て奪われて苦しい生活をしているとのこと。だが古びた甲冑と痩せたはまだ残っている、いざ鎌倉に一大事があれば必ず駆けつけると、常世は語気を強めた。

後日、鎌倉から武士たちに召集がかかった。痩せ馬に乗ってかけつけた常世が謁見した執権の北条時頼は、なんとあの夜の旅の僧と同一人物であった。時頼は常世の忠義を讃え、常世の所領が騙し取られたという件は常世の言い分が正しい旨の調べがついたと言い添える。時頼は常世に所領を返還してやり、また雪の夜のもてなしへの褒賞として新たな所領も加増した。

創作物における北条時頼

NHK大河ドラマ北条時宗

(演:渡辺謙
主人公である時宗が生まれる前に起きた宝治合戦から物語は始まっており、時頼は時宗が13歳(和泉元彌)になるまでの主人公として描かれている(ドラマのクレジットも本編の時宗が和泉氏になるまでは時頼役の渡辺氏がトップに来ていた)。宝治合戦では「一度は死んだ身」として僅かな供を連れ、鎧を着用せずに奮闘し勝利をおさめるが、三浦方についていた正室・涼子の父・毛利季光を自刃に追い込み、涼子から『父の仇』として死の間際に和解するまで恨まれることになる。流行病に倒れ、長時に執権の座を譲って出家したあとも最高権力者として力をふるい続ける。幼い時宗を連れて旅にも出ている(上述の廻国伝説を基に描かれた話であり、旅の道中で『鉢の木』伝説も取り上げられている)。

時宗が自らの跡取りとして大きく成長し、初めて寄合で将軍の上洛阻止に成功した直後に彼の兄弟である経時、檜皮姫(いずれも毒殺された設定になっている)と同じく何者かに毒を盛られてしまう。自らの死が近いことを悟った時頼は時輔、時宗、宗政を呼び、『自分に毒を持った下手人を探すな』、『兄弟皆の力を合わせ、自らのさだめを全うせよ』と遺言を残す(この時点で遺言を3つ伝えようとしていたが、3つ目を伝えようとしていたところで時頼の容態が悪化し、それどころではなくなってしまった)。

時輔を殺せ 静止画Ver.


そして死の間際にひとり呼び出された時宗に対し、3つ目の遺言『長時を殺せ』と、時宗だけへの4つ目の遺言『時輔を殺せ』を残し、「鎌倉は夢の都じゃ……。」と呟いて静かに息を引き取った。この壮絶な死に様と遺言は時宗(及び視聴者)に多大なる影響を及ぼし、死してなお物語で存在感を示し続けることになる。

余談

この臨終シーンを表現するために渡辺氏は銅と金のファンデーションを使い、顔を金に染めた。また、目は特殊なコンタクトレンズを使用した。

北条時頼を演じた俳優

日蓮』 1979年 映画 演:六代目 市川染五郎(九代目 松本幸四郎
『北条時宗』 2001年 テレビドラマ(NHK大河ドラマ)演:渡辺謙
『禅 ZEN』 2009年 映画 演:藤原竜也

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鎌倉時代 鎌倉幕府 北条時宗

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