概要
生年未詳。弘安2年6月4日(1279年7月14日)か5日(7月15日)没。
鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の子で第8代執権・時宗の異母弟。母親は辻殿、とされるが詳細は不明。兄弟の順序は時宗、宗政、時輔に次ぐ4番目とされる。幼名は曼珠(まんじゅ)。史料、系図によっては宗顕という名前で記載されていることもある。
時の征夷大将軍の供奉人を務めることが多く、1261年、極楽寺邸で行われた笠懸にて射手を務める。宗尊親王が将軍を解任され、京へ送還されることになった際は供奉人の筆頭として親王を京へ送り届けた。
元寇・文永の役から2年たった建治2年(1276年)の正月、宗頼はさらなる蒙古の襲来に備えるべく長門・周防の守護に任じられる。得宗の近親者としては異例の人事ではあるが、これは時宗が文永の役を経て九州とともに最前線となる防長の防備を重視し、自らの名代として宗頼を派遣したとされている。宗頼は庶子ではあったが、同じ庶子の長兄・時輔とは違い時宗からは信頼されていた。
彼の所領には肥後国(熊本県)・阿蘇社などがあり、宗頼は社殿の造営にも積極的に関わっていたとの記録も存在している。その後も西国の行政に活躍したが、蒙古が再び攻めてくる2年前の弘安2年6月4日(または5日)に長門国で亡くなった。
宗頼の正室は九州の有力御家人・大友頼泰の娘。彼の子に初代鎮西探題となった兼時、第9代執権・貞時の幕政を支えるも嘉元の乱にて成敗されてしまう宗方、赤橋流北条氏の久時に嫁ぐ娘(第16代執権・守時と室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏の正室・登子の母にあたる)がいる。
余談
- このように鎌倉時代中期の蒙古襲来の時代を語るうえで宗頼は欠かせない人物であるのだが、2001年放送の大河ドラマ『北条時宗』ではいなかったことにされている(第11話で語られた時頼の遺言や最終話の時宗のセリフではっきりと「兄弟3人」と語られている)。
- 同ドラマの原作小説『時宗』(高橋克彦著)ではちゃんと登場している。