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概要編集

1293(永仁元)年(設置年代には93年説と96年説があるが、ここでは93年の北条兼時派遣に始まる93年説を採用する)、蒙古襲来後の異国警固強化を企図した鎌倉幕府により、従来の鎮西談義所の機能を吸収・合併するかたちで、博多に設置された統治機構。北条氏一門が長官に任命され、元の襲来に備えるため、鎌倉及び六波羅探題への訴訟が禁止された鎮西御家人の紛争の処理にあたった。その他、九州及び壱岐や対馬の軍事統率・警察権を掌握し、辺海警備を行った。

1333(元弘3)年、菊池武時らによる鎮西探題攻略により、幕府と滅亡の運命を共にした。


歴代鎮西探題編集

  1. 北条兼時:8代執権・北条時宗の異母弟・宗頼の子。北条(名越)時家:2代執権・北条義時の次男・朝時の曾孫。
  2. 北条(金沢)実政:義時の五男・実泰の孫。弘安の役時の鎮西大将軍(幕府軍総司令官)。
  3. 北条(金沢)政顕:実政の子。
  4. 北条(金沢)種時:政顕の子。
  5. 北条(阿蘇)随時:時宗の異母弟・桜田時厳の孫で、4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼の弟・時定の養孫。
  6. 北条(赤橋)英時:6代執権・北条長時の曾孫で、16代執権・北条(赤橋)守時の弟。鎮西探題滅亡時に自害。

関連タグ編集

御家人

鎮西奉行

鎮西談義所

蒙古襲来

六波羅探題

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