概要
蒙古襲来後、鎌倉幕府は、異国警固集中のため、鎮西御家人による関東への訴えを禁止した。これに対応しての1286(弘安9)年、現地で訴訟を処理報告するために、博多に鎮西談義所が設置された。当初は頭人の大友頼泰、少弐経資、渋谷重郷、宇都宮通房の四人の合議体制が敷かれていたが、後に大友氏と少弐氏に権限が吸収・世襲された。1296(永仁4)年、鎮西探題が設置され、北条実政が就任すると、頭人は鎮西引付衆(ちんぜいひきつけしゅう)に補任され、以降談義所の機能は吸収された。
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