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北条政子

ほうじょうまさこ

北条政子とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物。「尼将軍」の異名を持ち、草創期の鎌倉幕府を陰日向に支え続けた。(1157年~1225年)
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概要

生没年 保元2年(1157年)~嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)
伊豆の豪族・北条時政の娘で源頼朝の妻。弟に義時などが、妹に阿波局(阿野全成室)などがいる。

源氏の頭領から征夷大将軍となった夫を陰に日向に支え、出家後から晩年まで幕府体制の安定に献身した。こうした政務面での功績は同時代の歴史書『吾妻鏡』や、室町期に成立した『神皇正統記』『難太平記』などの書物でも高く評価されるなど、後世に至っても日本史上における「女傑」の一人として名の挙がる事の多い人物でもある。

他方、時代が下って江戸期に入ると、前述した政務面での働きには一定の評価を与えつつも、儒学の影響から滅亡した婚家(源氏)を実家(北条氏)が取って代わった事が、婦人としての人倫に悖るものであると評されており、また持ち前の嫉妬深い気質などに対する批判も上がるなど、一時期は悪女の代名詞とされることもあった。

Pixivにおいては、2012年放送のNHK大河ドラマ平清盛』の登場人物(演:)としてのイラストが多数を占めている。

生涯

前半生

政子が産まれて間もなく、平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆・蛭ヶ小島に流されており、父・時政はその監視役を務めていた。政子と頼朝が恋仲となったのは時政が京に上っていた間の事であり、後からその事を知った時政は二人の結婚に強く反対するも、政子の決心は固く最終的には時政もこれを認めざるを得なかったという。時に治承元年(1177年)、政子が21歳の頃の事とされる。
この政子と頼朝の馴れ初めに関連して、次のような逸話も残されている。ある時「高い山に登り着物の袂に月と日を入れる」という不思議な夢を見たと、妹(阿波局)から伝えられた政子は「そんな尊すぎる夢は逆夢で、災いの前兆である」と答え、自分が身代わりになろうと持ちかけその夢を買い取った。この夢は実は瑞夢であり、この夢買いによって政子は頼朝と結ばれた・・・というものである。

治承4年(1180年)、頼朝が伊豆にて平家打倒の兵を挙げると、当初政子は長女・大姫と共に伊豆に留まっていたが、やがて頼朝が鎌倉入りを果たすとそれを追って当地へ移った。養和2年(1182年)には長男・万寿(頼家)を出産するなど、頼朝の御台所として幸せな日々を送る・・・はずであった。
ところがこの妊娠中、頼朝が愛妾・亀の前と度々関係を持っており、この事を知った政子は怒りのあまり部下に命じて、亀の前の居館を打ち壊させるに至ったのである。さらにこの仕打ちに激怒した頼朝がその部下を手ひどく罰し、それに対して不服を示した時政ら北条一族が伊豆へ退去するなど、この一件は思わぬ波紋を広げる結果となった。この政子の怒りは、単に持ち前の嫉妬深さに因るものだけでなく、頼朝の正室としては出自が低くその立場が不安定であった、という事も関係していると考えられている。
このような一件もあったとはいえ、終生頼朝と添い遂げ続けた政子であるが、その後も頼朝の女性関係にはしばしば気を揉まされる事が多く、頼朝も頼朝で政子を憚って半ば隠れるように女性の元へ通ったという。

その一方で、寺社への参詣や造営式への出席など、御台所としての務めもしっかりと果たしており、文治2年(1186年)に静御前源義経の愛妾)が鎌倉へ送られた際、鶴岡八幡宮にて頼朝の眼前で義経を想う歌を詠った際、激怒する頼朝に対して政子は自身の馴れ初めを引き合いに出しつつ、彼をとりなした事もある。静に対しては、後に彼女が男子を出産した際にはその助命を嘆願し、これが通らずに終わった後も何かと気にかけていたと伝えられている。
建久年間に入ると、政子と頼朝は長女・大姫の処遇について頭を悩ませるようにもなる。これより以前、源義仲との和睦に際して、大姫の婿として鎌倉に下っていた嫡男・義高を彼女は慕っていたが、やがて義仲が討たれると義高もまた連座して誅されてしまい、それ以来大姫は心身を害して長く床に臥せる日々が続いていた。
頼朝と政子は大姫の行く末を案じ、始め頼朝の甥に当たる一条高能との縁談、次いで後鳥羽天皇への入内を打診している。しかしいずれも不調に終わる中、大姫は政子たちの尽力の甲斐なく、建久8年(1197年)に20歳の若さでこの世を去ってしまった。この時政子も、娘の後を追って死のうと思い詰めるほどの悲しみを示している。

尼将軍

大姫逝去の翌々年、建久10年(1199年)正月に頼朝が急死すると、政子は出家し尼御台と呼ばれるようになり、家督と将軍職を継いだ長男・頼家を陰ながら支える立場となった。
しかし頼家の独裁、そして乱行に対して御家人たちからは次第に不満や反発の声が上がるようになり、政子も頼家と安達景盛との軋轢に際して両者を仲介し、頼家に対して訓戒を与え事態を収拾した事もあった。また一方で、この頃の幕府内では頼家との婚姻関係を通して、有力御家人の一人である比企能員とその一族が俄かに権勢を増しつつあり、この状況は北条氏にとって到底座視出来るものではなかった。
結果、政子と父・時政は頼家が病で危篤に陥ったのを機に、弟の実朝と嫡男・一幡による分割統治を決定。これに不服を示した比企一族を策を講じて討滅すると、さらに病より奇跡的に快復した頼家をも出家に追い込み、伊豆の修善寺へ押し込めるという非情な手段に打って出たのである。

政子の非情さは身内にも向けられた。頼家亡き後、新たに将軍職に就いた実朝の治世下で父・時政は初代執権に就任し権勢を振るっていたが、やがて時政が後妻・牧の方と結託して実朝を廃し政権を手中に収めようとすると、政子は弟の義時らと共にこの謀略を阻止し、二人を鎌倉より追放せしめている(牧氏事件)。
さて、兄・頼家とは対照的に実朝は穏和な文人肌であり、将軍就任後は朝廷や公家との融和政策を推し進めていたが、一方で御家人たちはこの政策が自分達の利益を損ねかねないものとして、不満を募らせるばかりであった。また病弱がちな実朝には跡継ぎが出来ず、鎌倉政権の行く末にも俄かに暗雲が立ち込めつつあった。
こうした状況は政子も憂慮するところであり、畿内に上って寺社へ実朝の平癒を祈願したり、実朝亡き後の将軍候補として後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に迎える事を、朝廷に対して打診したりもしている。しかしこうした政子の取り組みも実を結ばぬうちに、建保7年(1219年)に実朝は鶴岡八幡宮にて甥の公暁(頼家の遺児)に暗殺されるという、悲劇的な最期を遂げる事となるのである。

実朝の横死は、将軍の跡継ぎを巡って幕府と朝廷との軋轢を引き起こす引鉄ともなった。両者の折衝の末に関東申次・九条道家の子で、頼朝の同母妹・坊門姫の血を引く三寅(後の九条(藤原)頼経)が新将軍として鎌倉へ下向、政子がその後見に当たる事となるが、かねてから幕府と朝廷による二頭政治が続いていた事への不満を朝廷が抱いていたのに加え、前述した皇族将軍を迎える案を巡り対立が生じた事で、両者の緊張は次第に高まりを見せつつあった。
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は遂に諸国の兵を集め、「2代執権・北条義時を討て」という院宣を発した。世に言う承久の乱の始まりである。この朝廷側の動きに対し、政子は動揺する御家人たちを纏めると共に、大江広元の献策による京への積極的な出撃策を採決し、瞬く間に朝廷側の軍勢を打ち破るに至っている。この時の逸話として、政子は鎌倉の武士たちを前に「頼朝公の恩は海よりも深く、山よりも高し」と演説し、浮足立っていた御家人たちの心を動かした、とも伝わっている。

承久の乱での勝利により、鎌倉幕府は朝廷を抑えて国政を主導するようになり、幕府を主導する北条氏による執権政治も盤石なものとなった。乱より3年後の貞応3年(1224年)に弟・義時が没すると、その嫡男である泰時が3代執権の座に就いたが、この時義時の後妻・伊賀の方によってその実子・政村を執権に擁立しようという動きがあり、この時も政子はいち早くその企みを察知し、未然に防いでいる(伊賀氏の変)。
ところがその一方で、泰時はこの陰謀を事実ではないと否定しており、また陰謀の渦中にあった政村や伊賀光宗らに対しても比較的穏当な処置が取られた。幕府体制の安定のため、あまり厳重な処罰に踏み切れなかったという事情もあるが、前述の牧氏事件と同様の構図でもある事から、この時期すでに将軍家だけでなく北条氏とも関係が希薄となっていた政子が、影響力の回復を企図して伊賀氏潰しに乗り出した、即ち政子の生涯最後の謀略ではないかとの見方も呈されている。

政子が病を得て69年の生涯を閉じたのは、それから間もない嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)の事であった。将軍御台所としてまた尼将軍として、時にままならぬ事も多かったその生涯ではあるが、政子や義時が盤石のものとした鎌倉幕府と執権政治は、その後実に1世紀あまりの長きに亘って続いていく事となった。

関連タグ

鎌倉幕府 北条氏 吾妻鏡
大河ドラマ
前出の『平清盛』の他、複数の作品に登場。1979年放送の『草燃える』(演:岩下志麻)では物語後半の主役として位置付けられている。
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