概要
鎌倉時代前半に発生した政変の一つ。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の逝去に際し、その継室・伊賀の方や彼女の実家である伊賀氏一族が、義時の長男・北条泰時を排除し、自分たちの血を引く五男の北条政村を後継者に据えようとしたものである。
この企て自体は、「尼将軍」北条政子らの迅速な処置によって未然に阻止され、泰時が京都より召還され第3代執権に就任。伊賀の方を始めとする首謀者らも配流という形で幕引きがなされた。
一方で、この政変はあくまでも『吾妻鏡』での記述に拠るところが大きく、同書でさえも伊賀氏が謀反を企てたと明言はしていないこともあり、実際に前述したような企てがあったのかという点については未だ謎の残されている事件でもある。
また、実態がどうであれ「実弟とはいえ謀反の疑いのある者を不問として処罰を下さなかった」という点から、泰時の慈悲深さ・名君ぶりを示すエピソードとして紹介されることも多い。
事件の推移
事件は、貞応3年6月13日(1224年7月1日)に執権・北条義時が急死したことに端を発する。
義時には6人の息子がいたが、この時点で後継者と目されていた長男・泰時は六波羅探題北方の務めのために在京の身であり、彼を除く5人が鎌倉に在る状態であった。このため6月18日に営まれた義時の葬儀にも、この5人が参列している。
が、訃報に接して直ちに鎌倉へ向かっていたはずの泰時はこの時、どういう事情でかは判然としないが北条氏の本領である伊豆に向かっており、遅れて京都を発った叔父の北条時房(六波羅探題南方)や、従兄弟に当たる足利義氏と共に鎌倉に入ったのは、葬儀からさらに一週あまりが過ぎた6月26日のことであった。この後の動向から推し量るに、恐らくはこの鎌倉入りまでの間、鎌倉市中に飛び交う風聞などの情報収集に当たり、事実の精査に当たっていたのではないかと考えられている。
その翌々日、北条政子の館に呼び出された泰時・時房の両名は、政子や大江広元から「軍営御後見」、即ち執権として政務に当たるよう命じられた。これと前後して、泰時の四弟・政村の周辺がにわかに騒然となり、泰時が政村討伐に乗り出すといった風聞や、政村の外戚に当たる伊賀氏が前述の軍営御後見の件を不服とし、伊賀の方が自分の子である政村を執権に、娘婿の一条実雅(※)を将軍に据えようしているという画策が、実しやかに囁かれるようになる。
が、一方の泰時はこれらの風聞を事実無根として静観の構えを取っており、その後も政所執事の伊賀光宗を始めとする伊賀の方の兄弟たちが、政村の烏帽子親でもある三浦義村の館に出入りし密談に及んでいるとの噂が立っても、やはり動揺する様子を見せなかったという。
伊賀氏による「陰謀」の噂が立ってから20日ほど後の7月17日、鎌倉近郊で騒動が発生する一方で政子が三浦邸を自ら訪れ、義村に事実関係を問い糾した。政子からの再三の詰問に対し、「政村に反逆の意思はないもののその周辺に何らかの考えがあり、自分ももしもの時は自ら制止に当たる」と義村は返答。翌日には逆に義村が、泰時の館を訪れ釈明に及んでもいる。
その後も7月の末に空騒ぎが起こっており、翌閏7月に入って早々に次期将軍・三寅(後の九条頼経)と、その後見の政子の臨席のもとで宿老会議が開かれ、義村や葛西清重・結城朝光ら列席した御家人たちに二心のないこと、そして新たな指導者たる泰時への支持が、その場にて改めて確認・確約されたと見られる。
これらの流れを経て、閏7月3日には「伊賀氏による政変の企て」が明るみに出たとして、その首謀者と目された伊賀の方や伊賀光宗ら兄弟、それに一条実雅に対する処分が決定された。
同月のうちに実雅は京都へ送還され、朝廷に処分を一任し後に解官の上で越前へ配流。8月の末には伊賀の方が伊豆へ、伊賀光宗が政所執事職を解かれた上で信濃へそれぞれ配流とされた。光宗の弟である朝行・光重も在京中の北条時氏(泰時の長男)の元へ預けられた後、両名とも九州へ配流という形で、一連の「政変」の幕引きが図られたのである。
伊賀の方は、それから間もない12月の末に危篤となったとの報せが鎌倉にもたらされており、時期こそ明確ではないがそれから間もなく帰らぬ人となったと見られる。また、一条実雅も 安貞2年(1228年)に越前で変死したと伝わる。一方で伊賀光宗やその兄弟は、嘉禎元年(1225年)に政子が逝去した後に幕府から所領の回復と、評定衆への復帰を許されている。
(※ 源頼朝の同母妹・坊門姫の夫である一条能保の三男。実雅自身は坊門姫所生の子ではないが、伊賀の方所生の娘を娶っていたと同時に西園寺公経の猶子でもあったことから、次期将軍の有力な側近の一人に数えられていた)
「政変」の謎
不審な点
以上が、『吾妻鏡』など同時代の史料から読み取れる政変の経過、そして現代において広く知られている「通説」であるが、一方で前述した「伊賀氏による政権簒奪の企て」と単純に受け取るには、少なからず不審な点も複数見受けられるのもまた確かである。とりわけ、
- 「首謀者」である伊賀の方らが配流となった一方、執権に擁立されようとしていた政村やその同母弟・実義(のち実泰)は連座を免れている
- 伊賀光宗やその兄弟たちも、政子や大江広元が亡くなって程なく幕政への復帰を許されている
という、仮にも政権簒奪という大罪を犯した立場の人間に対しては寛大に過ぎる措置(室町時代の足利義持とかのケースと比較しても)が講じられているのも見逃せない点であろう。一応、この当時の鎌倉幕府が承久の乱を鎮めたとは言え未だ不安定な状態にあり、幕府の足元の動揺を防ぐためにもあまり厳重な措置には踏み切り難い、という背景があったにしてもである。
ここで重要な点が2つ挙げられる。1つ目は「当事者の一方であるはずの北条泰時が、一貫して「事実無根」であると事態の沈静化に努めている」こと。そして2つ目が「泰時と政子とが必ずしも歩調を合わせた動きを取っている訳ではない」ことである。
そもそも前述の通り、伊賀氏による謀反の風聞は『吾妻鏡』の貞応3年6月28日条での記述に拠るところが大きく、他の同時代史料にこれを補強するだけの記述は確認されていない。加えてその『吾妻鏡』でさえも、伊賀氏の謀反はあくまでも風聞止まりに過ぎず、それが確たるものとして記されている訳ではないことにも留意すべき必要がある。
にもかかわらず、この一件は政子や広元の主導により「謀反が実際にあった」という既定路線の下、ともすれば不自然とも言えるほどに迅速な措置が講じられており、こうした政子たちの性急な姿勢は終始慎重な見方や動きに徹していた泰時とは、まるで対照的なものであった。
もう一つの可能性
つまるところ、この一件は前述の『吾妻鏡』における記述を信用するか否かで、その見え方が大きく異なってくるものとなっている。件の風聞を屈託なく信用した場合が前述した「通説」となる訳だが、泰時と同様に事実無根として捉えた場合、もう一つの側面――即ち「政子らにどうしても伊賀氏を排除したい何らかの思惑があったのではないか」という疑いが浮かび上がってくる。
実は伊賀氏の変のような政権簒奪の企ては、何もこれが最初という訳ではない。3代将軍・源実朝の在世時には、時の執権・北条時政と牧の方夫妻が実朝を排し、娘婿の平賀朝雅を次期鎌倉殿に擁立せんとする企て(牧氏事件)が画策されながらも、体制側の迅速な措置によって企てが頓挫し、逆に時政ら首謀者たちが政権中枢から排斥されるという、前述の「通説」に近い構図が展開されている。
このことを踏まえて考えると、政子たちが牧氏事件の時と同様に、伊賀の方やその一族を「謀反人」に仕立て上げ、強引にでもこれを幕政に影響を及ぼす立場から排除せんと考えていたのではないか、と見ることもできるのである。
ここで、義時が逝去した貞応3年(1224年)当時の、義時の息子たちの年齢、爵位、官位、幕府役職に改めて触れることとする。年齢は数え年。
- 長男・泰時:42歳、従五位上武蔵守、六波羅探題北方
- 次男・朝時:32歳、従五位下周防権守
- 三男・重時:27歳、従五位下駿河守、小侍所別当
- 四男・有時:25歳、大炊助
- 五男・政村:20歳
- 六男・実義:17歳、祗候番
以上のように泰時は当時40歳を過ぎ、官職・役職、何より政治的実績や経験値が他の兄弟より群を抜いており、義時や北条氏の後継者として申し分ない人物に成長していたものの、一方では次のような難点も抱えていた。
- 母方の有力な血縁者の不在
泰時の母(阿波局)については、義時の最初の妻(もしくは妾とも)であるという点以外は今もって不明な点の多い人物であり、彼女自身(や、いるとすればその親族ら)など、後ろ盾となるべき有力な血縁者がこの時点で存在しない状態にあった。
- 後継者としての立場の不安定さ
泰時は「義時の後継者」としての立場こそ早期のうちに確定していた一方で、「北条氏の後継者」としては異母弟の朝時が、兄や父を差し置いて定められていたという説もあり(詳細は北条朝時の記事を参照)、泰時に北条氏の家督継承の可能性が浮上してきたのは、牧氏事件を経て父が北条氏の家督を継承した後になってからのことであった。このような背景から、北条氏の中での泰時の立場というのは必ずしも盤石とは言い難かった。
一方の政村は、この時20歳に達したにもかかわらず、他の兄弟と違い未だに無位無官、さらに無役であったために一見すると、最も遅れを取っているかのように見える。しかしこの時点での継室所生の長子である上、伊賀氏や二階堂氏といった有力な後ろ盾を持つゆえに、泰時の立場が政村にひっくり返される危険性が決してないとは言い切れなかった。もっとも、当主・行盛(行政の嫡孫)を始めとする二階堂一族は、伊賀氏の変では親族の伊賀一族に同調せず泰時や政子の側に付いていたりもする訳であるが。
ともあれこうした事情ゆえに、ここで政子たちが次期執権と定めた泰時の対抗馬になりかねない存在を除いて、少しでも泰時の立場を確たるものとする必要はあったと考えられる。
そして同時にこれは、泰時だけでなく政子の立場にも関わるものでもあった。実朝の横死で京都より摂家将軍を迎えた時点で既に政子と将軍家の血縁関係は断たれ、さらに時政から義時、そして泰時へと代替わりしていくに連れて北条本家との関係すらも希薄になりつつある中、両者への影響力の低下を恐れた政子がこの「謀反」をでっちあげたのも、かつての源氏将軍家における自分がそうであったように、伊賀の方もまた前の当主(義時)の後家として、今後の北条氏の中で強い立場を持つことにもなり得たからではないか、と見る向きもある。
とは言え以上の見解についても、現段階ではあくまで有力な説の一つに過ぎず、どちらが事実であったのか、あるいはそれとはまた別の側面があったのかについては、未だ確定を見ていないという点に留意すべき必要がある。
泰時と似たような立場にあった人物
泰時同様、長男で器量も十分で実績があり官職を得ながらも母方の有力者に恵まれなかった人物として、近い時期に平重盛やその父・平清盛がいる。
清盛は平忠盛の嫡男であった一方、生母が不明であったことから母方の後ろ盾がなく、長じてからも祇園闘乱事件や、忠盛継室の池禅尼という後ろ盾を持つ異母弟・平家盛の台頭もあり、その家盛が逝去するまでは不安定な立場にあった。また家盛の死後も、その同母弟・平頼盛と名刀抜丸の件などで確執があった。
重盛は清盛の後継者として平家一門を率いる立場にあったものの、泰時や清盛同様に母方の有力な血縁者に恵まれず、家督継承後も早い時期から継室平時子所生の平宗盛に一門の棟梁としての地位を脅かされていた上、重盛の死後には彼の一族(小松家)も一門内での立場を大幅に低下させる格好となった。
関連タグ
北条時宗(大河ドラマ):2001年放送のNHK大河ドラマ。作中において、晩年の北条重時が政村とこの事件について回想するシーンがある
鎌倉殿の13人:2022年放送のNHK大河ドラマ。この事件に関連する人物の多くは、同作の主要な登場人物とも被っている
後の伊東四朗:『鎌倉殿』、それに『時宗』の双方に跨がるネタのひとつ