史実
保延6年(1140年)?~正治2年1月20日(1200年2月6日)
鎌倉権五郎景政の弟の子孫。仮名は平三。若い時は同族の大庭景義・景親兄弟同様、源義朝に従っていたが平治の乱後は大庭景親と共に平清盛に従った。
治承4年(1180年)に伊豆で決起した義朝の三男・源頼朝は討つための景親率いる頼朝討伐軍に加わる。石橋山の戦いでは北条時政の長男・宗時らを討たれた頼朝はわずかな手勢と共に山中に遁れたが、景時は頼朝の居場所を知りながら敵方であるにもかかわらず見逃したという。
その後、頼朝は再挙し勢力拡大を果たしたが景時は富士川の戦い後に景親が斬られてから降伏してある。養和元年(1181年)、頼朝に改めて対面し御家人に列した。弁舌が巧みであったことから頼朝に重用され、厩別当や侍所所司として御家人の統制に当たり、寿永2年(1184年)には謀反の疑いのかかった上総広常を殺害した。
木曽義仲追討のため源義経とともに上洛し、そのまま平氏追討に当たった。屋島の戦いあたりから作戦上の問題で対立。壇ノ浦の戦いで源氏方が勝利できたが、義経の勝手な行動を逐一鎌倉に報告した。主に、本陣で座して指揮するべき総大将が先陣に立って動いたため士気を乱し、諸将がもらうべき恩賞も独り占めした。大将なら動くべきではないと諌める景時に対し、義経は自分の大将は鎌倉の頼朝と反論し、景時は義経を大将の器ではないと判じたという。
義経追討の後は幕府の宿老として列したが、頼朝の死後、結城朝光が将軍源頼家を誹謗したと糾弾した。その後、朝光に対し阿波局(阿野全成の妻)が朝光を煽り、朝光は三浦義村に相談した。かねてより義経の件や畠山重忠を讒言した件などが積もり積もって御家人達からの反感を買っていたこともあり、千葉常胤・胤正父子に三浦義澄といった長老級を筆頭に義村・朝光・重忠・和田義盛など66人もの御家人が景時糾弾の連判状を作成し大江広元に提出。広元も頼家も景時を庇いきれず景時は失脚。正治2年(1200年)、一族を率いて上洛しようとしたが(または幕府から朝廷に仕えようとした)、駿河で在地武士の攻撃を受け敗死し、梶原氏は族滅させられた(梶原景時の変)。
数少ない生き残りのうち、最も嫡流に近い景俊は足利氏に仕えた。
後年は『平家物語』や『義経記』等の影響で讒言をもって義経を追い落とした悪人と嫌う風潮が長らく続いたが、一方で幕府を支え続けた厳格な幕府の最古参という見方も多い。また、当時の初期の鎌倉政権では数少ない事務方の仕事をこなせる武士であった。
都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。
梶原の二度懸
景時最大の見せ場。生田の森の戦いで平知盛の軍と戦った景時はさんざんに闘い軍を引いた。ところが長男・梶原景季が敵中に孤立したため景時は他の息子たち共に再び敵陣に懸け入り景季を救出。世に「梶原の二度懸」と呼ばれたという(平家物語巻第九「二度之懸」)。