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屋島の戦い

やしまのたたかい

屋島の戦いとは、日本の合戦の一つ。一ノ谷、壇ノ浦と並び、治承・寿永の乱(源平合戦)の中でも特に有名な合戦の1つとして知られる。
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概要編集

元暦2年/寿永4年2月19日(1185年3月22日)、讃岐の屋島(現・香川県高松市)を舞台に、鎌倉方(源義経他)と平氏方(平宗盛他)の間で繰り広げられた合戦。


治承・寿永の乱(源平合戦)における著名な戦いの一つとして知られ、この合戦によって鎌倉方が平氏方の勢力を四国より駆逐した事で、一ノ谷の戦い以降もなお瀬戸内一帯の制海権を掌握していた平氏方の、鎌倉方に対する優位をひっくり返す契機ともなった。


本記事では便宜上、屋島の戦いに至るまでの経緯についても簡潔に触れるものとする。


経過編集

合戦までの流れ編集

寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで、畿内への再挙の動きを挫かれた平氏方は、讃岐の屋島に内裏を置き、長門の彦島と合わせて拠点を置く事で、瀬戸内一帯の制海権を掌握し勢力の回復を図った。

対する鎌倉方は水軍力の欠如などもあり、西国への追討軍の派遣は同年8月までもつれ込む事となった。当初、その軍勢の指揮は源義経に任される予定であったが、実際にはその異母兄である源範頼が指揮を執る事となった。

義経が追討軍の指揮より外された理由については、一ノ谷の戦いの後に任官を巡って義経と兄の頼朝との間で生じた確執に原因を求める見方も根強く残るが、実際のところは追討軍出立の一月前より、畿内において伊藤忠清平信兼(山木兼隆の父)ら平氏の家人らによる反乱(第一次三日平氏の乱)が断続的に勃発し佐々木秀義が討死する事態になり、在京中であった義経もそれらの収拾に専念せざるを得なくなったという事が、昨今の研究の進展につれて明らかにされつつある。


追討軍は一旦入京した後、9月に九州へ向けて進発したが、一旦は長門まで進みながらも兵糧調達の難航、そして予てからの水軍力の欠如もあって思うような進撃に及べず、平氏方に対して苦戦を強いられた。兵糧の不足のために追討軍の間では厭戦の空気が蔓延し和田義盛までも東国へ帰ろうとするなど一時は全軍が崩壊寸前にまで追い込まれるという有様であった。

翌元暦2年(1185年)に入って豊後周防の豪族の協力を得てどうにか兵糧・軍船を確保し、範頼や北条義時らの追討軍は九州へ渡って筑前芦屋浦で平氏方との合戦に勝利を収めるも、それでもさらなる苦境の打開には程遠い状況にあった。


四国への渡海編集

義経が後白河法皇より、西国出陣の許可を得たのは元暦2年2月に入ってからの事であった。早速義経は摂津を拠点とする渡辺党や、熊野水軍・伊予水軍を味方につけ、2月18日夜半に嵐を突いて摂津の渡辺津より、わずか150騎の軍勢で四国への渡海を強行した(※1)。

翌日、通常なら3日はかかる航路を1日余りで渡海し、義経勢は無事に阿波勝浦に上陸を果たした。予てより当地やその近隣では反平家分子が生じていたとされ、実際に淡路では源氏に連なる者を旗頭として挙兵した勢力もあった。

このような事情から、義経は渡海以前より連絡を取っていた在地の武士を味方につける一方、屋島に拠っていた平氏方が伊予河野氏討伐のために手薄となっている事を知り、この好機を逃すまいと進撃を開始。夜を徹しての行軍の末に屋島の対岸に至った。


小勢であるのを隠すべく、周辺の民家に火をかけてあたかも大軍が到来したかのように装うと、義経勢は屋島の内裏へと強襲。陸からの思わぬ奇襲に不意を突かれた平氏方は内裏を放棄し、一旦海上へと逃れた。

もっとも、義経の策は程なくして看破されたようで、その後平氏方は海上より猛烈な弓射を屋島の義経勢へと見舞った。この猛攻の前に、義経をかばって郎党の一人である佐藤継信が討死する(※2)など、義経勢は少なからぬ痛手を被る事となる。


※1 この渡海の折、義経と梶原景時の間で船に逆櫓を付けるか否かを巡り、激しい口論が戦わされたという「逆櫓の論争」の逸話が残されており、大阪市福島区にはその場所とされる老松のあった辺りに「逆櫓の松址」も残されている。他方で、この時景時は範頼と行動を共にしていた事が、『吾妻鏡』や九条兼実が著した『玉葉』の記述から明らかにされており、現在ではこの逸話は創作であるとの見方が有力になりつつある)

※2 ここで継信を討ったのが平教経であり継信が討死した場所は「射落畠」と呼ばれている。その教経もこの時侍童の菊王丸を、継信の弟である佐藤忠信の矢によって失ったと『平家物語』は伝えるが、『吾妻鏡』では教経がこれより以前、一ノ谷の戦いにおいて討死したと記している。)


扇の的と弓流し編集

夕刻になり、戦もひとまず一段落したところで、平氏方から一艘の小舟が現れ、先に扇を付けた竿が掲げられた。この扇の的を射てみよという、平氏方からの挑発であった。

これに対し、義経勢から受けて立ったのは下野の武将・那須与一(宗隆、資隆とも)である。射損じれば自害も辞さぬ覚悟で、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱えつつ与一が放った鏑矢は、見事扇の柄を射抜き両軍からは感嘆の声が上がった。『平家物語』の名場面の一つ「扇の的」の逸話である。


・・・と、これだけで済めば紛れもない名場面なのだが、ここで平氏方の武者の一人が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた辺りから雲行きが怪しくなっていく。与一は義経からの命でこの武者をも射抜き、この所業に平氏方の船団は一転して静まり返るに至った。

この所業に憤った平氏方は再度の攻撃をしかけ、両軍は再び激戦を展開する事となる。その最中、義経は自らの弓を海に落とすという痛恨の失態を演じてしまい、敵の攻撃を掻い潜ってこれを拾い上げるという一幕もあった。


こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ


戦の後、義経はこの時の事を以上のように語っており、これが後世「弓流し」の逸話として伝わる事となるのである。


志度の戦い編集

屋島より逃れた平氏方はその後、讃岐の志度寺(現・香川県さぬき市志度)に籠もるが、屋島での合戦の翌々日である2月21日には、義経勢80騎の追撃に遭って再び敗走。塩飽庄から厳島を経て、本拠としていた彦島への後退を余儀なくされた。

一方この頃、既に九州では鎌倉方の追討軍が博多・太宰府も占拠しており、平氏方は四国での拠点のみならず九州からの支援さえも失い、彦島にて孤立する格好となってしまった。対する義経勢は、遅れて渡邉津より渡海してきた梶原景時率いる軍勢と合流、瀬戸内を西進して平氏方への追撃をかけつつ、さらに周防で守備にあたっていた三浦義澄勢を加え、いよいよ決戦の地である壇ノ浦へと進む事となる。


余談編集

この戦いで主戦場となったのは屋島の東岸であり、この場所は現地における地域通称として檀ノ浦(だんのうら)と呼ばれていた事から、屋島の戦いもまた檀ノ浦の戦いと呼ばれる事がある(源平最終決戦である壇ノ浦の戦いとは「壇」の文字が違う。屋島の檀ノ浦は木偏の「檀」であり、下関の壇ノ浦は土偏の「壇」である。もっとも屋島の現地でも屋島の檀ノ浦に対して「壇」の文字を使う人もいるが)。

なので香川県民(特に高齢者、地域の古老)に「檀ノ浦の戦い」の用語を出すと、高確率で屋島の戦いの事になり、話が行き違いやすい(親切な人なら「どっちの?」と確認するが)。

逆に屋島の戦いを「檀ノ浦の戦い」と表記した場合、本来の壇ノ浦の戦いは「下関の戦い」と呼ばれる。


関連タグ編集

平安時代 源平合戦一ノ谷の戦い屋島の戦い壇ノ浦の戦い

源義経 佐藤継信 那須与一


ヤシマ作戦


屋島駅琴電屋島駅:両勢力が当初に陣を置いた屋島(屋島古戦場跡)への最寄り駅。なお、ここで言う「屋島古戦場跡」とは、屋島の戦いの現地を一望できる展望台であるため、実際に戦闘が行われた場所とはズレがある。

八栗駅:扇の的や弓流しが繰り広げられた現地古戦場への最寄り駅。高松琴平電気鉄道志度線

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