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概要編集

12世紀後半の日本に起こった、源氏平家平氏)が主勢力に分かれて戦った内乱。狭義では1180年(治承4年)から1185年(元暦2年)の治承・寿永の乱。広義では1156年(保元元年)の保元の乱から1192年(建久3年)の源頼朝征夷大将軍就任としている。

源平」と言っても、武家の二大勢力による対立から起こった二極衝突、というほど情勢は単純ではなかった。皇室や院(上皇法皇)、藤原氏嫡流と庶流の対立、摂関家の内部対立、寺社勢力、各地在郷豪族なども複雑に絡んでおり、平家に与した源氏もいれば、源氏同士の戦いもあり、武家ではない源平もいたりと、「源平」合戦という名称は歴史学的には本来は適切ではない。言うなれば、平家派対反平家派、中央対地方の戦いであった。

この記事では便宜上として「源平合戦」を用い、扱う時期の幅は広義の場合の時代とする。


背景編集

12世紀の日本。それまでの貴族たちの律令体制は崩れ、藤原氏の皇室との姻戚関係による摂関政治や荘園制が中央政治の中心となっていた。この現状に対して、退位した天皇である「治天の君」(上皇・法皇)が藤原摂関家の排除を図って、天皇を補佐して政治をする「院政」が白河天皇によって開始。皇族は権力掌握を図って挙って院政の中心治天の君を目指して権力闘争を繰り返し、派閥争いが激しくなった。上皇は独自の防衛組織を設立し、武家である源氏と平家が多く招かれ、彼ら武家が中央政治に出現する要因となった。また上皇が出家して法皇となり、これによって支援や保護を受けた寺社が力を増し、独自に武装した僧兵を有して朝廷への強訴を起こした。


保元の乱編集

鳥羽法皇による院政が続いていたが、1156年(保元元年)に鳥羽院が崩御。それまで鳥羽院に嫌われて冷遇された崇徳上皇は再起を図って、後白河天皇と対決することに。この時、藤原氏・平家・源氏の一族同士の対立も巻き込み、4つの一族が二分して戦う「保元の乱」が起こった。

崇徳院側の源為義源為朝平忠正は夜襲を提案したが藤原頼長によって却下され、一方の後白河帝側の源義朝平清盛は夜襲を実行。1日にして勝敗は決し後白河院側が勝利。頼長は宇治へ逃れる途中、流れ矢にあたって討死。為義・忠正らは処刑された。為朝は伊豆大島へ崇徳院は讃岐に流された。


平治の乱編集

信西藤原通憲)の元、新体制が築かれて、後白河院政が始まった。しかし、政界は院政派と二条天皇親政派に分かれ、さらに藤原信頼は対立していた信西排除と権力掌握を狙い、義朝を誘って、1159年(平治元年)に清盛が熊野詣で留守の間に挙兵し、「平治の乱」を起こした。

脱出した信西だったが追っ手に追いつかれて自害。後白河院と二条帝は軟禁された。事態を知った清盛は紀伊の豪族の助けを借りて急ぎ帰京。二条帝と後白河院を脱出させ、平家軍は反乱軍を撃破。信頼や源義平らは斬首され、義朝は関東へ逃亡する途中に尾張で討たれ、源頼朝は伊豆へ配流された。


平家の栄華編集

清盛率いる平家は中央政界で台頭し始め、清盛は武家では初の太政大臣にまで上り詰めた。後白河院とも良好な関係を築き、高倉天皇に娘の平徳子を入内させ、藤原氏とも婚姻関係を結んだ。瀬戸内海航路を整備して、日宋貿易による莫大な収益で経済基盤を固めた。

しかし、1176年(安元2年)に後白河院と清盛の橋渡し役であった建春門院滋子の死によって両者の間は軋み始める。強訴を繰り返す延暦寺対応を巡って対立し、反平家派の既存勢力は後白河院と図って打倒平家を企てたが(鹿ケ谷の謀議)、密告によって発覚し、藤原成親俊寛西光などが摘発された。清盛は院への直接攻撃も考えたが平重盛の説得で断念。重盛亡き後に院は平家への圧力を強め、ついに清盛は1179年(治承3年)に「治承三年の政変」を起こして、政界内の反平家派を一掃して親平家派で固め、後白河院を幽閉して院政を停止。安徳天皇を即位させた。


源氏の挙兵編集

一方、皇位継承の機会を奪われた以仁王源頼政と図って打倒平家を計画し、1180年(治承4年)に熊野源行家に全国の源氏に挙兵を促す令旨を送った。しかし謀反は事前に発覚し、平知盛重衡の平家軍の攻撃を受けて頼政も以仁王も討たれた。

同じ頃、頼朝は令旨を掲げて挙兵。石橋山での戦いに敗れるも、敗走後に関東諸豪族と協力体制を結び、鎌倉を拠点とした。信州木曾の木曾義仲や甲斐の武田信義(武田信玄の祖先)も挙兵。東国だけでなく、西国の諸豪族や寺社も次々に反平家挙兵を起こし、清盛は体制固めのために福原遷都を強行。かえって反発を招き、平家は窮地に立たされいていく。平維盛率いる平家軍は富士川の戦いで鎌倉源氏・甲斐源氏連合軍と対峙したが、ほとんど交戦のないまま敗走。頼朝はそれ以上の西国への進撃はせず、鎌倉を本拠として侍所を設置、新たな武家政権の体制作りに努めた。

反平家派となった興福寺平重衡が率いる平家軍の攻撃を受けたが、東大寺大仏殿が戦乱に巻き込まれ焼失した。熊野も反平家派となり、1181年(治承5年)に清盛が原因不明の熱病で亡くなり、平家はそれまで一族を牽引した強力な指導者を失った。


義仲の上洛編集

1183年(寿永2年)に平家追討の令旨を得た源義仲は信州を制圧して越前へ攻め入る。燧城では敗れたが平維盛率いる平家軍を倶利伽羅峠で撃破。その余勢を駆って安宅・篠原の戦いでも勝利し北陸道を通って都へ向け進撃。義仲軍の接近に対して平家の棟梁となった清盛の三男・宗盛三種の神器と安徳帝を奉じて西国への都落ちを決断。しかし、一門から離脱した平頼盛を始め伊藤忠清平田家継平貞能兄弟や関信兼のように同行しなかった人物も少なくなかった。連行されそうになった後白河院は延暦寺に避難し難を逃れた。

上洛を果たした義仲だったが、飢饉の影響で義仲軍の略奪と狼藉が相次いで貴族や民衆からの反感を買い、さらに備中水島で義仲軍は平家軍に敗れ、皇位継承を巡っても後白河院と対立。後白河院はそれまで反乱軍扱いだった頼朝に東国統治権を与え、鎌倉との関係を図った。

後白河院は頼朝に義仲追討のために上洛を促し、頼朝は弟の源義経源範頼を上洛させた。この動きに怒った義仲は後白河院を幽閉して、1184年(寿永3年)に征夷大将軍に就任。しかし、鎌倉軍の攻撃を受けて、源氏同士の戦いとなり、義仲は討たれた。


平家の滅亡編集

義経は帰京を目指す平家を討つため、一ノ谷の戦いで背後から奇襲攻撃(鵯越えの逆落とし)し、不意を付かれた平家軍は海上へ敗走。その後、伊勢・伊賀で平家残党による第一次三日平氏の乱が起きるが源氏方が平定。一方、頼朝は範頼に平家討伐のために陸路西国へ進軍させるも食糧不足などで捗らず撤退論まで有り様だった。これを打開するために1185年(元暦2年)、義経に屋島に布陣する平家を討つため、嵐の中に出陣を強行し背後から平家を急襲して、平家軍を敗走させた。

そして壇ノ浦において源平両軍は激突し、平家軍は徐々に劣勢となり、二位尼は安徳帝と三種の神器を携えて入水。平家は滅亡した。


義経の敗走編集

義経は頼朝を無視して院や朝廷との関係を深めたため、兄弟の関係は悪化。義経は後白河院から頼朝追討の院宣を手にするが、頼朝は院に軍事的圧力を見せ、今度は義経追討の院宣を出させ、守護・地頭の全国的設置を認めさせた。追い詰められた義経は敗走し、奥州平泉藤原秀衡の元へ逃れた。平泉は鎌倉との関係が悪化していたため、秀衡は義経を保護した。しかし1189年(文治5年)、秀衡亡き後を継いだ泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を討った。その後に奥州は鎌倉に攻め入られ、平泉は滅んだ。


中世の幕開け編集

1192年(建久3年)、頼朝は征夷大将軍に就任し、関東で武家政権の鎌倉幕府が成立。頼朝に連なる源氏は三代で終わり、その後は妻の北条政子の北条家が執権政治を行い、承久の乱(1221年(承久3年))で朝廷に勝利して、武家制度を全国に拡大させた。


関連タグ編集

日本史 平安時代 鎌倉時代 院政期

古代 中世

源平

京都 鎌倉 平泉 熊野 比叡山


平家 平氏 平清盛 平忠盛 平忠度 平重盛 平重衡 平宗盛 平時子 平徳子 平滋子 平盛子 平頼盛 平知盛 平経正 平敦盛 平教経 平盛国 平景清 平維盛 平資盛 平清経


源氏 源義朝 源為義 源為朝 源義平 源頼朝 源義経 源義仲木曾義仲) 巴御前 北条政子 源頼政 武蔵坊弁慶 源範頼 源行家 常陸坊海尊


天皇 上皇 法皇 白河天皇 鳥羽法皇 崇徳上皇 後白河法皇 二条天皇 高倉天皇 安徳天皇 以仁王


藤原氏 藤原忠通 藤原頼長 藤原信頼 信西

大庭景親 上総広常 千葉常胤 畠山重忠 梶原景時 和田義盛 北条時政 土肥実平 熊谷直実 斎藤実盛 三浦義澄 藤原秀衡 藤原泰衡 那須与一


興福寺 延暦寺 東大寺 平等院 僧兵 強訴


平家物語 吾妻鏡 義経記 勧進帳 耳なし芳一 黒塚 炎立つ 草燃える 平清盛(大河ドラマ) 源平討魔伝 スキヤキ・ウエスタンジャンゴ 遙かなる時空の中で3 火の鳥 平家物語(アニメ) 鎌倉殿の13人 遮那王義経

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