概要
法皇(ほうおう)とは、出家した天皇・上皇。またはその称号のことをいう。
正式には太上法皇(だじょうほうおう、だいじょうほうおう)と言う。
または国家の君主である皇帝と、信仰の代表者である法王を兼任していること。
上皇(出家をしていない太上天皇)と法皇の間に法的な身分の違いが生じるわけではない。
ただし、後述する花山天皇の事例を見ると「出家してしまうと、重祚は不可能」という考えが有ったようである。
平安時代の第59代・宇多天皇が出家後にこの称号を初めて使ったとされているが、『続日本紀』には第45代・聖武天皇が譲位して法皇と称して東大寺の大仏開眼供養に参列していたことから、その出所には若干のぶれがある。
寛和2年(986年)、即位わずか2年の第65代・花山天皇が藤原摂関家に欺かれ退位・出家する事件が起こった。当時天皇は19歳、実権を摂関家に握られた天皇に失政の余地があるわけがない(寛和の変)。この事件は当時の皇位継承が天皇家ではなく藤原摂関家の意向によって左右されていた事実を後世に知らしめることとなった。
平安時代末期、朝廷の実権を握っていた藤原摂関家にも衰退期が訪れることとなった。
摂関家の血が薄い第71代・後三条天皇が徹底的に摂関家を廃すると、天皇の皇子である第72代・白河天皇、白河院の皇孫・鳥羽天皇(第74代)、鳥羽院の皇子・後白河天皇(第77代)も退位後に上皇・法皇として院政を行い、「治天の君」と言われ最盛期を迎えた。
鎌倉時代以降も院政は行われており、当初は鎌倉幕府に伍するだけの勢力を保っていたが、承久3年(1221年)、第82代・後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」で朝廷軍が敗れたことにより、実権は武家政権に移ることとなっていく。
以後も院政は朝廷内にのみ行われたが、政策が全国に波及することはなかった。
現在、最後に法皇位についたのは江戸時代中期に在位した第112代・霊元天皇とされている。
明治以降は、神仏分離令により皇室は神道のみを信仰することなったため、出家して法皇になることは無くなった。2019年、退位特例法によって上皇が200年振りに誕生する事になってもそこは変わらないと思われる。
なお、現在に限らず法王(宗教の最高指導者の称号の一つ)との混用が激しい。
また、フィクションでは、「ドラゴンクエストⅧ」において、教会の最高指導者である「法皇」が登場するなど、現実の「法王(=教皇)」と違う称号をあえて使う例がある。