君主号「王」を尊んだ敬称として「大王」という言葉も併せて使われていた。
古代アジアでも諸国で使用された。
君主号ならば他にも「皇帝」「天子」などがあるが、シナ(現在の中国)皇帝から「王」に冊封されていた事実が、君主号として選ばれた第一義的な規定要因だったであろう。
「王」とはシナ周代までは天下を統率する君主の称号であったが、ひとたび統一君主の称号として「皇帝」が使われるようになると、それまでの君主号であった「王」はそれにつぐものと位置づけられた。
西暦2世紀のはじめのころ、君主の称号は「王」であった。
しかし日本(支那(中国)からは「倭」と呼ばれた)はいまだ被冊封国ではなかったため「国王」の称号が認められていた。
その後、日本が冊封されたとみられる3世紀、4世紀ごろの君主号もやはり「王」であった。
やがて5世紀後半の雄略天皇の時代を最後に、日本は冊封体制からはなれた。
明らかにこのころ、日本の君主が「天下」を統治対象としているとの考え方が生れており、日本列島内部の統治が成熟をとげるにしたがって、王権の自立志向があらわになったと考えられる。
5世紀の末頃に日本が冊封体制から脱却した後、王権の自立志向のもとでも1世紀ほど「王」号を継続使用していたが、それも敏達天皇の時代までと考えられ、6世紀も後半になると「王」からの脱却が目指されるようになった。
敏達天皇に続く用明天皇の時代には、「帝王」ないし「皇帝」号へとうつったのではないかとも考えられるが、用明・崇峻両皇につづく推古天皇の時代になって、「帝王(皇)」号は使われなくなったようである。
そこで第1回遣隋使のときは、アメタリシヒコという和訓の君主号を名乗ったようで、隋はこれを「倭王」とうけとめているが、第2回遣隋使での君主号は「天子」であった。
推古天皇の時代、オホキミ(大王、大々王、太帝、太皇)は即位前からの推古天皇個人の通称であり、このことは当時すでに「王」号が君主号の性格を失っていたことを示す。
推古天皇16年(西暦608年)、「天皇」という称号が登場することになる。
そしてシナ王朝への服属関係を解消した推古天皇以降、いつまでも「王」号を使いつづけたとは考えられないのである。
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