「帝室は万機を統るものなり、万機に当るものに非ず」。
日本国憲法における天皇
日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と表現する。
- その地位は、皇室の存続を祈る日本国民の総意に基づくものとされ(第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。
- 天皇は、国事に関する行為を行い(第7条)、国事に関する行為には内閣の助言と承認を必要とし(第3条)、国政に関する権能を全く有さない(第4条)。
天皇は日本国憲法の定める国事に関する行為を行うとされ、国政に直接関与する権能を有しない。天皇の行う国事行為は以下の通り。
- 国会の指名に基づく内閣総理大臣の任命。
- 内閣の指名に基づく最高裁判所長官の任命。
- 憲法改正、法律、政令及び条約の公布。
- 国会の召集。
- 衆議院の解散。
- 国会議員の総選挙の施行の公示。
- 国務大臣や、その他の官吏の任免の認証。
- 外国への全権委任状、派遣する特命全権大使・特命全権公使の信任状の認証。
- 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権の認証。
- 栄典の授与。
- 批准書、条約など外交文書の認証。
- 外国の大使、公使の接受。
- 儀式を行うこと。
これらの天皇の国事行為は、内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う(輔弼と同義)。
帝国憲法においても、元首たる天皇は明文規定がなくとも、当然に国家の象徴であった。新渡戸稲造なども『日本』(英文)において「天皇は……国民統合の象徴である」と記している。
現行憲法においては、内閣総理大臣が行使する行政上の権限がない点で、帝国憲法と異なる。このような中近世的な二重統治を強調し「象徴天皇制」という学者も多い。ところがそれでは憲法学上の「象徴」の説明になっていない。幣原喜重郎内閣の楢橋渡内閣書記官長はGHQに「天皇は空に輝く太陽であり、主権在民、天皇は民族の象徴である」と伝えて歓迎されたという逸話があり、ヘレン・ミアーズは「天皇は、国民統合と日本の伝統的文明の連続性を象徴する」と述べている文脈にこそ、象徴の語義が表れている。即ち、神聖性・超越性・歴史性を包含した概念の用語である。
以下で詳しく説明する。
天皇の地位
日本国と日本国民統合の「象徴」とされ、国民大多数の意思に基づくものとされる。天皇が「元首」であるのか否か議論があるが、そもそも日本国憲法には、元首について何ら記載がない。よって、「元首」の定義いかんで結論が異なるとされることが多い。
ただしそもそも、大日本帝国憲法に用いられた「元首」という用語は、欧米列強の仲間入りをする必要性から形を整え、また武家政権終了後に地位を内外に宣明するために必要な表現であったと思われるが、本来はヨーロッパの近代法制の中で生まれた概念であり、日本古来の天皇を正確に表現したものとは言い切れない。
反対に「象徴」という言葉は、もともと法律用語として熟さないものであり、外国には一、二の例があるが、日本では、日本国憲法において初めて法令中に登場した。
つまり「元首」といい、「象徴」といっても、それは法文中に示された表現の差であって、我が国最高の地位にあることに帰着する。
なお当然ではあるが、日本は立憲君主制をとる国の1つと見られ、天皇は諸外国から「君主」として扱われる。
「象徴」の意義
日本国憲法の表現によれば、天皇は「象徴」とされたが、これは「あくがれの対象」であり、「国民親愛の対象」であると説明されている(天野貞祐文部大臣など)。
皇室は政治の外に仰がれ、そのために永遠の尊厳が期せられている。
このことは天皇を政治によって煩わせてはならないということに帰着する。
これは、皇室は全日本国民の皇室であり、一部の味方のものではないからである。
皇室の奪い合いをし、与野党の猛烈な攻防の中で、皇室を政争の具に供することがあってはならない。
天皇の役割は何か。
苛烈な政争の間に、その政治の衝に当たられるのではなく、民心融和の中心となっているのである。
つまり政争は盛夏厳冬のように苛烈であるが、
皇室のみは万年の春であり、国民もこれを仰いで安心するのである。
天皇を「国民親愛の対象」とするのは、上記のことをいう。また明治初年に福沢諭吉が「万機を統るものなり、万機に当るものに非ず。統ると当るとは大に区別あり」と述べたのもこのことである。
政争苛烈、民心軋轢という惨状を呈するとき、その党争に中立する、一種特別の勢力が中にいて双方を緩和し慰撫して、各々自家保全をよくさせるという役割であり、実際政治の艱難を思う時、これは共和国には存在しえないメリットである。
また、政府や国会のできることは、法令によって社会の秩序を整理しようとし、悪を懲らし罪を罰することまでであり、懲罰を蒙るのは国民にとって人生の汚辱であるが、善を勧め、功を賞することに至っては、栄誉の源泉たる皇室のみができることである。
更に、書画彫刻、剣槍術、囲碁将棋、料理割烹、織物染物陶器銅器の製作など、多種多様な学術の保護奨励も、政府の官省に託するべきものではなく、政治社会の外に立って高尚な学問の中心たる皇室が、これを保全し進歩を促すものべきものである。
「国民親愛の対象」とは、道徳的関係である。窮屈極まる道理の中に窒息するかもしれない国民の閉塞に、国中に温暖の空気を流通させてこれを救い、世の中の波を平らにできるのが天皇お一人ということであり、これが現行憲法の表現する「象徴」である。
立憲君主制に関する議論
政府見解では象徴天皇制の日本を「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」としている。
天皇が君主であるか否かは多数の見解がある。
佐々木弘道の説では、象徴天皇制は日本独自の形式的な君主制とする。
- 天皇は、その権限を6条の任命権と7条の国事行為の限定列挙(加えて4条2項の国事行為の委任に関する規定を含めることもある)により量的に限定され、かつ質的にも3条により政治的決定権を剥奪されまた6条において実質的決定権の所在を規定することで天皇の行為が形式的なものであることを明らかにしている。
- 天皇の権限は名目的・形式的なものに限定されている。一般的な英国型立憲君主制に比して、このような君主権力がよりいっそう消極的な、日本独特の君主制である天皇制を象徴天皇制としている。
芦部信喜の説では、日本国憲法下では天皇は「君主」では無いとする。まず「君主」の要件は以下と考える。
- その地位が世襲で伝統的な権威を伴う
- 統治権、少なくとも行政権の一部を有する
天皇は「象徴」という主権者の枠外におかれ(憲法第1条)、「国政に関する権能を有しない」者であると規定され(第4条)、国事行為においても「認証」「接受」という形式的・儀礼的行為しか認められていない。憲法1条の規定の主眼は、国の象徴たる役割を強調するというよりも、むしろ天皇が象徴以外の「君主」としての役割を持つことを積極的に禁止した、と解釈する。「国民主権」を原則とする以上、天皇に対し「象徴」以外の権能を、憲法改正等による主権者からの付託を伴わずに与えることには現行憲法上問題がある、とする。
日本の元首に関する議論
象徴天皇制を規定した日本国憲法及びその他日本の法律には元首に関する規定が無く、日本国において元首が何であるかについては議論がある。
日本政府の公式見解では「天皇は元首と言って差し支えない」「天皇は限定された意味における元首である」とし、外国でも天皇は国家元首待遇をされているが、学説においては天皇を元首ではないとする学説もある。
但し、これらの議論の結果がどうであろうと、その定義云々から権限や役割に変更があってはならないことはいうまでもない。
ヨーロッパの君主制との比較
君主制をとる国で、日本の天皇のように君主に政治的な権限がない国は、北欧やオランダ、スペインなどが挙げられる。
日本の天皇以上に政治的な権限が制限されている君主として、スウェーデン国王があげられる。1979年の憲法改正以後、首相任命権などの形式的な国事行為すら認められていない。政治から完全に分離され、国の対外的代表としての地位しかない。そのため、象徴君主制という新たな区分を設けるべきではないかとする意見がある。
その一方でリヒテンシュタイン家は、象徴・儀礼的存在にとどまらず、強大な政治的権限を有している。そのため、ヨーロッパ最後の絶対君主制と言われる。
象徴に対する国民の義務
日本国憲法下の憲法学の基礎を固めた宮沢俊義の恩師・美濃部達吉は、憲法についてこう述べている。
「国民は天皇を国家の姿として国民統合の現れとして仰ぎ見るべきことが要求せらるるのである。それは単に倫理的感情的の要求たるに止まるものではなく、憲法の正文を以て定められて居るのであるから、必然に法律的観念たるもので、即ち国民は法律上に天皇の御一身に対し国家及び国民統合の現れとして尊崇すべき義務を負ふのである。国家の尊厳が天皇の御一身に依り表現せられ、国民は何人も其の尊厳を冒涜すべからざる義務を負ふのである」。
日本国憲法下において、天皇は国民の父母であることを自覚して象徴たるべきことを要求するのみならず、国民にも象徴たるにふさわしく敬重すべきことを要求しているのである。