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太上天皇

だいじょうてんのうあるいはだじょうてんのう

太上天皇とは、譲位した天皇の称号、尊号。
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概要編集

生前に皇位を皇太子譲位した天皇のことをいい、「太上皇」とも「」、「上皇」とも呼ばれ、その御所は「仙洞・仙院」とも呼ばれた。


第41代・持統天皇文武天皇が譲位したのが初例とされ、当初は譲位後も天皇在位中と変わらぬ権能が保証されていた。

中国の太上皇帝・太上皇にならって「大宝令」で制定されたものと考えられている。


しかし、大同4年(809年)、第51代・平城天皇が病気を理由に同母弟・嵯峨天皇に譲位すると、平城上皇はにわかに健康を回復し「天皇」復位の野望をもち、朝廷とは異なる命令を乱発、天皇と上皇が対立する「二所の朝廷」と呼ばれるありさまとなった。

平城上皇はほどなく失脚し、平城旧京に幽閉になった。この件が理由になったかは定かではないが、弘仁14年(823年)、『弘仁格』、『弘仁式』を編纂して律令制を整備した嵯峨天皇は異母弟・淳和天皇に譲位すると、嵯峨上皇は公的地位を離れ、朝政からも身を引くこととなった。

承和9年(842年)7月、上皇が崩御すると藤原北家が台頭。

以後、天皇の外戚となった藤原摂関家が長く朝政の中枢を担っていくこととなっていく。


藤原摂関家の力が弱まるのは、治暦4年(1068年)4月後三条天皇が即位してからであった。第69代・後朱雀天皇を父に、第67代・三条天皇の皇女・禎子内親王を母として生まれた天皇は藤原摂関家とは血のつながりが薄く、その治世において摂関家の力を徹底的に廃した政治を行っている。


治天の君編集

院政は後三条天皇の後を継いだ白河天皇(後三条帝の第一皇子)の譲位後に始まり、白河院は治天の君と呼ばれた。以後、鳥羽上皇後白河上皇の治世において最盛期を迎えたが、承久3年(1221年)、朝廷の実権を握っていた後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こし鎌倉幕府に敗れると一気に衰退、江戸時代にも行われたが、それは朝廷内にとどまり、全国に波及することはなかった。

治天である上皇・法皇が皇室の事実上の家長であるが、治天の君が常に一人のみであったのに対し、上皇自体は複数存在することも多かった。同時に多数の上皇が並立した最多記録は、正安3年1月28日(1301年3月9日)から嘉元2年7月16日(1304年8月17日)まで、後深草上皇・亀山上皇・後宇多上皇・伏見上皇・後伏見上皇の5名の上皇が存在した期間である。


皇室典範編集

明治22年(1889年)、大日本帝国憲法と同時に制定されたが戦後にいったんは廃止、昭和22年(1947年)、日本国憲法とともに公布・施行された。


これによると「上皇」を定めた条項はなく、江戸時代後期、文化14年(1817年)に119代・光格天皇が恵仁親王(仁孝天皇)に譲位して以降、202年間にわたって「上皇」位についた天皇はいない。


しかし、平成29年(2017年)3月、譲位の意向を固められた天皇の退位後の称号をいかようにするか検討が重ねられ、歴史上の事実を鑑みて、平成29年(2017年)6月9日に「退位特例法」が定められ、平成31年(2019年)4月30日をもって皇太子・徳仁親王に譲位、天皇は退位後に「上皇」(英:His Majesty the Emperor Emeritus)、皇后は「上皇后」(英:Her Majesty the Empress Emerita)との称号になられることが定められた。

新たな元号は平成31年(2019年)4月1日に「令和」となることが定められた。これに伴い、2019年5月1日より「令和元年」にに改元され、先の天皇は「上皇」位につくことが定まった。

なお、退位特例法における「上皇」はそれ自体が正式な名称であり、「太上天皇」の略称ではない。



親王から太上天皇となった例編集

  • 後高倉院・後崇光院・陽光院(誠仁親王)
  • 慶光天皇(閑院宮典仁親王)

関連タグ編集

天皇上皇法皇譲位


  • 光源氏
    • 源氏物語』の主人公。名声を極めた末、天皇の落胤であったことから「准太上天皇」と称されるに至った。

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