欠史八代
けっしはちだい
神武天皇に始まる古代の天皇のうち、紀元前6世紀前期~紀元3世紀半ば頃までに在位したとされる2~9代目天皇の事。
系図や古事記、日本書紀といった記録には系譜が記されているが、その多くが昭和天皇の64年すらも凌ぐ超長期間在位していた(それこそ百年以上いた人もいる)割に逸話や業績は何も無い。
実際の年数は記録された在位年数の半分か四分の一程度の長さで、年代もどんなに古く遡っても1世紀頃から3世紀後半頃ではないかと言われている。
近代以降の研究で、系図を長く見せるため・神秘性を高めるために後代に追加された存在なのではないかと言われるようになった。その論拠は以下の三つである。
①事跡についての記述がない
②天皇の名辞が後世的である
③全てが父子の継承とされている
④八代のいずれかを始祖に位置づける豪族は大和地域の有力豪族か地方の下級豪族の両極端に偏っている。
⑤八代以降の時代から6世紀頃までタブー視されていた同母系親族との近親婚が見られる。
古代の社会では複数の勢力や地域を一つに統合する過程で、「自分たちは同じ神・祖先の血を受け継ぐ同胞・兄弟である」という意識を共有できるように、それぞれの地域が崇拝する英雄や神を同一視したり祖先の系譜に加える等の、いわば神話のアップデートのような事がしばしば行われていた。そのため欠史八代も大和地域で興った王権が日本列島全体の多様な地域を統合していく過程で順次加えられていった存在であるという事が推察される。
ここで注意しなければならないのは、そうした改変は狭く地域的な社会がより大きなまとまりを持った国に発展していく過程で必要とされた作業であるため、これを「嘘」や「でっち上げ」「捏造」のような悪意を持った行為と捉えるのは適切ではないという事である。
同様に架空の存在ではないかという主張が現在の皇室を不当に貶める意図を持っているとは限らないので注意が必要である。
神話上の存在であるとする一方で、以下のように実在の王だったとする説や反論も少なからず存在する。
①事跡についての記述がない
このことは欠史八代のみならず、18代反正(はんぜい)天皇・24~33代目(仁賢(にんけん)天皇・武烈天皇・継体天皇・安閑天皇・28代宣化天皇・欽明天皇・敏達(びだつ)天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇)も『古事記』では同様で、特に反正天皇は『古事記』『日本書紀』共に事跡の記事が無いが、これを根拠に実在を否定する者はいない。
②天皇の名辞が後世的である
後代の名前が前代の名にちなんでつけられる明らかな実例がある。ヤマトネコ(倭根子)の語を共通して含む桓武天皇、平城天皇、淳和(じゅんな)天皇、仁明天皇の実例でこれも否定の根拠にはなり得ない。
③全てが父子の継承とされている
欠史八代の婚姻関係には、父子関係の継承だったとは考えにくい系譜伝承がある。『日本書紀』のに注記される異伝によると、3代安寧天皇、5代孝昭天皇、6代孝安天皇の結婚相手は磯城県主・葉江の娘、4代懿徳(いとく)天皇はその弟の猪手の娘(つまり葉江の姪)と結婚している。もしも欠史八代が創作だったら、父子継承記事と対立する婚姻関係を注記するはずがなく、古伝を尊重したとしか考えられない。
しかも古伝と考えられる婚姻関係は奈良盆地磯城出身で考古学上の知見とも整合的であり、8代孝元天皇からの婚姻関係も物部氏系、または河内・丹波の豪族の娘が結婚相手となっており、大和政権の発展の歴史が復原できる記録となっている。
これらの説は実在説の裏付けとするには不十分とされる事もある。また、「伝承があった」がそのまま「実在人物だった」とイコールになるわけでもない。しかし、少なくとも古事記や日本書紀が編纂される段階で一から創作されたとする見方に対する反論にはなり得る。