概要
孝昭天皇の第二子。母は瀛津世襲の妹・世襲足媛(ヨソタラシヒメ)。
『日本書紀』には御名が日本足彦国押人尊とある。
孝昭68年に立太子し、先帝が崩御して即位。
都を室秋津島宮(むろのあきづしまのみや。現在の奈良県御所市)に移した。
孝安26年に押媛命を皇后とし、大日本根手彦太瓊尊(孝霊天皇)を産んだ。
『日本書紀』では押媛命は孝安天皇の姪とされていて、天皇の皇兄である天足彦国押人命の娘ではと記されている。
『書紀』では137歳(『記』では123歳)で崩御した。
御陵
玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)に葬られた。
皇統
- 皇后:押媛(おしひめ、天足彦国押人命の娘)
・大吉備諸進命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)古事記のみ
・大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと、第7代・孝霊天皇)
史実性
神武天皇の崩御後は10代崇神天皇に至るまでの間、国内には有事なく、天下はよく治まって基礎がますます固まっていった。そのため『古事記』『日本書紀』に事跡の記事を欠き、戦後は実在しなかったとの見方が通説であった。
しかし今では、都の所在地が正確で、結婚相手は奈良盆地磯城出身であり、国風諡号も当時の名辞で、いずれも後世の創作ではありえないことが明らかとなっており、御陵の記録も平地の前方後円墳ではなく考古学的な事実と一致しており、創作説は説得力を失っている。