崇神天皇
すじんてんのう
第9代開化天皇が崩御された翌年、崇神天皇元年、皇太子であった御間城入彦五十瓊殖尊(ミマキイリビコイニエノスメラノミコト)が即位された。
崇神天皇は「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)とも呼ばれていた。
※「御肇国」とは「はじめて整った国を治める」という意味であり、初期国家の君主にふさわしい呼称である。
ちなみに、初代神武天皇もまた「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれたが、「始馭天下」は「はじめて天下を治める」の意味であり、初代天皇の意味である。
崇神天皇のおられた実年代は3世紀と考えられる。
崇神天皇10年の詔で「民を導く本は教化にある」と仰せられたように、教化を政治理念とされた。
そのために徳をもって統治されたが、それでも思われるようにならないときは神に祈られた。
また、天照大神と倭大国魂神を天皇の御殿の内に祀られたが、神の勢いを恐れられて、天照大神を大和の笠縫邑にお祀りし、倭大国魂神を渟名城入姫命(崇神天皇の皇女)にお預けして祀らせた。
天皇は、遠い国の人々を教化するために、大彦命を北陸へ、武渟川別を東海へ、吉備津彦命を西道(山陽道)へ、丹波道主命を丹波へと、4人を将軍に任命して全国各地に派遣された。
有名な四道将軍の派遣である。
天皇は財政にも力を注がれ、人民の戸口調査を行い、「弭調」(ゆはずのみつぎ:獣肉や皮革などの狩猟生産物)、「手末調」(たなすえのみつぎ:絹や布などの手工業生産物)という税を課せられて、天下は平穏になったといい、他にも善政を行われた。
都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。『古事記』には、「師木の水垣宮(みづかきのみや)に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。
→纏向遺跡のページ参照。
崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移す。
崇神天皇6年、疫病が流行。疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した(伊勢神宮)。
崇神天皇10年9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。
途中、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知り、大彦命が引き帰って闘うという事態が発生するも、大彦命の力により謀反は抑えられた。
崇神天皇11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。
崇神天皇12年9月、戸口を調査して課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。
※古事記には天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、と書かれている。
・活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと、第11代・垂仁天皇)
・彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)
・国方姫命(くにかたひめのみこと)
・千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)
・倭彦命(やまとひこのみこと)
・五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)
- 妃:遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ、紀伊国荒河戸畔の娘)
・豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)
・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)
- 妃:尾張大海媛(おわりのおおあまひめ、建宇那比命の娘)
・大入杵命(おおいりきのみこと)
・八坂入彦命(やさかいりびこのみこと)
・渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)
・十市瓊入姫命(とおちにいりびめのみこと)
山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に葬られた。現在、同陵は奈良県天理市柳本町の柳本行燈山古墳(前方後円墳・全長242m)に比定される。