日本国第九代の天皇。御名、稚日本根子彦大日日尊(ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト)。
概要
孝元天皇の第二子。母は欝色雄命の妹・欝色謎命。
欠史八代の最後の天皇。
孝元天皇の崩御後に即位、それまで畝傍山周辺にあった都を北へ移動させ、春日の率川宮(いざかわのみや、奈良県奈良市本子守町の率川神社が伝承地)を営む。
父帝・孝元天皇の皇妃・伊香色謎命を皇后とした。
現在の科学で実在が確かな10代崇神天皇の父帝である。
実績
鳥居がないことで知られている調神社を創祀した。
御陵
春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)に葬られた。
皇統
・御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと、第10代・崇神天皇)
- 妃:丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、由碁理の娘)
・彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)
- 妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命、和邇日子押人命の娘)
・彦坐王(ひこいますのみこ)
- 妃:鸇比売(わしひめ、垂見宿禰の娘の娘)
・建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)古事記のみ
史実性
初代神武天皇の崩御後は10代崇神天皇に至るまでの間、国内には有事なく、天下はよく治まって基礎がますます固まっていった。そのため『古事記』『日本書紀』に事跡の記事を欠き、戦後は実在しなかったとの見方が通説であった。
しかし今では、都の所在地が正確で、結婚相手も奈良県盆地島南部クラスの豪族の娘でなく大和朝廷の発展を充分指摘できる記録となっており、国風諡号も当時の名辞で、いずれも後世の創作ではありえないことが明らかで、近年では創作説は説得力を失っている。
その他
『後漢書』東夷伝に「倭在韓東南大海中、依山島爲居、凡百餘國、皆稱王、自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、皆稱王、世世傳統、其大倭居耶馬臺國」とある。
武帝が朝鮮を滅したのは漢の元封2年で、日本においては開化天皇4年に相当している。「耶馬臺國」はすなわち大和国の漢音訳であるから、漢時代には彼我の交通のあったことが推知される。つまり武帝の時代に日本の使訳が漢に三十余回通じたことを記録している。そうすると西海の県主等が中国に通じたのは、武帝の頃に始まったことを知ることができる。