概要
第96代天皇。
正応元年11月2日(1288年11月26日)~延元4年8月16日(1339年9月19日)
在位、文保2年2月26日(1318年3月29日)~延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)
日本史上異例な、積極的に中国式の皇帝独裁を指向した天皇。鎌倉幕府倒幕とその後の戦乱、南北朝分裂の混乱を招いた全ての元凶である。
生涯
歴代天皇の中でも特に波乱に富んでいる後醍醐天皇の生涯は、大きく3つに分かれる。
持明院統と大覚寺統
正元元年(1259年)、後嵯峨上皇は後深草天皇(後嵯峨院の第ニ皇子)は第三皇子・久仁親王に譲位するよう命じた。亀山天皇である。その後、後嵯峨上皇は後深草天皇よりも亀山天皇に目をかけていたこともあり、文永5年(1268年)には亀山天皇の皇子、世仁親王が立太子することとなった。そして文永9年(1272年)、院政を続けてきた後嵯峨上皇が没すると、後深草上皇・亀山天皇のいずれが治天の君となるかが注目され、鎌倉幕府8代執権・北条時宗は生前の後嵯峨院の意向を尊重して、亀山天皇を治天の君とした。
これに後深草上皇は不満を抱き、ここから持明院統(後深草天皇の系統)と大覚寺統(亀山天皇の系統)との間に皇位をめぐる対立が始まり(笠原英彦『歴代天皇総覧』)、鎌倉時代後期から室町幕府3代将軍・足利義満が持明院統の後小松天皇のもとに統一するまで続いた。
倒幕まで
鎌倉末期、皇位継承における持明院統と大覚寺統の対立は、より複雑なものとなり深刻さを増していた。貴族達も両派に付いて対立していたため、内部調整能力を失っていた朝廷に対して鎌倉幕府も介入し、両派の交替即位をさせていたが、お互いに有利になろうとする運動は激しさを増し、各派内部でも派閥争いが深刻化していた。
後醍醐天皇は持明院統の花園天皇の譲位により、文保2年(1318年)、即位したが、早世した兄の後二条天皇の皇子・邦良親王が成人するまでの、いわゆる「中継ぎ」として皇位についたものであり、正当な大覚寺統の皇位継承者はあくまでも後二条天皇の子孫とされ、後醍醐天皇は(後二条天皇の子孫が断絶しない限り)子孫に皇位を継がせる事ができなかった。
野心が強く、密教と儒学(宋学)に通じていた後醍醐天皇は、邪魔者である大覚寺統本家(甥の邦良親王とその子の康仁親王。のちの木寺宮家)と持明院統と鎌倉幕府を打倒して、宋のような絶対君主制を樹立しようと、正中の変・元弘の変と倒幕計画を企てたが失敗し、1回目は先手を取って計画を失敗させた吉田定房に庇ってもらったが、2回目は勘弁されずに隠岐に流されてしまう。
しかし、護良親王や楠木正成をはじめとする倒幕派の武将達が次々に蜂起すると、後醍醐天皇は名和長年の手引きで隠岐を脱出。長年の本拠・船上山で倒幕の指示を出し、ついに足利高氏(足利尊氏)、新田義貞、赤松円心をはじめとする有力御家人も後醍醐天皇に付き、鎌倉幕府が崩壊し天皇は帰京。持明院統の光厳天皇と大覚寺統本家の皇太子康仁親王を廃位し、新たな政権を樹立する(建武の新政。歴史学などでは建武政権と呼ばれる)。
建武政権
建武政権では後醍醐天皇が絶対君主として直接政治を掌握し、貴族と武士をともに従えようとしたのだが、
- 既存の家格・家職を無視した強引な人事で、貴族(北畠親房のような側近を含む)に総すかんを喰らう。
- 鎌倉幕府を牛耳っていた北条家当主(得宗)の身内びいきに不満を抱いていたために後醍醐天皇の味方になった者が多い武士を(側近以外は)冷たく扱い、不満を持つ武士達が名門・足利家の当主でかつ赤橋流北条氏の縁戚でもある尊氏のもとに集まる。
- 人事も恩賞も極めて不公平で、頻発した訴訟への対処も無茶苦茶。
- 経済政策の混乱(信用裏付けのない紙幣発行の強行と頓挫など)により、庶民にも嫌われる。
- 自派の武士を大勢抱える護良親王が足利尊氏と対立して混乱を招いたため、護良親王を失脚させる。
などなどの混乱が多発して、万里小路藤房のように政権に絶望して失踪する貴族まで出してしまう。
これらの失政を批判した風刺文書として良く知られるのが二条河原の落書である。建武政権末期のグダグダぶりについては、後醍醐天皇が吉野に逃亡後の1338年、北畠親房の長男で鎮守府大将軍の北畠顕家が後醍醐に提出した文書(北畠顕家上奏文)で詳細な批判を加えている。
そして建武2年(1335年)、鎌倉幕府14代執権・北条高時の次男・北条時行が幕府残党を率いて蜂起した際(中先代の乱)、鎮圧のため鎌倉へ向かった足利尊氏が、弟の足利直義らの後押しを受けて離反。畿内へ攻め込んだ足利軍を北畠顕家らが一度は九州へ追い落とすが、新田義貞らの追討軍が赤松円心(護良親王派だったため冷遇されていた)らの抵抗により足止めされている間に、九州で菊池一族を倒した尊氏が光厳上皇の支持を獲得して逆襲。湊川で楠木正成らを戦死させた足利軍は、千種忠顕・名和長年らを討ち取り、京都を占領した。
南朝の始祖
一度は幽閉され、持明院統の光明天皇へ譲位させられた後醍醐天皇だが、吉野へ逃亡してから三種の神器の所持と譲位の無効を自称。反足利派の貴族や武士を率いる南朝の始まりとなる
(この時、吉田定房や北畠親房は南朝に合流するが、大覚寺統の本家である木寺宮家や、既に出家していた万里小路宣房は京都に留まっている)。
その後、懐良親王を西国へ、宗良親王を東国へなど、各地に皇子達を送り出して勢力挽回を試みたが、菊池一族を味方につけた懐良親王以外は大勢力を樹立できないまま、新田義貞や北畠顕家などの有力武将は次々と戦死していき、後村上天皇に譲位した翌日に崩御。陵墓は京都を向き北面して眠っている。
その後の南朝は、後村上天皇と長慶天皇が北朝(と支持母体の室町幕府)と戦い続けるが、後亀山天皇の代にはほぼ抵抗する力も失い、北朝に併合されて終わりを告げる。
後醍醐天皇の男系子孫は、室町幕府への反乱を企む者が擁立する事を危惧した足利義教が出家による断絶策を取り、応仁の乱の頃を最後に史料でも確認できなくなった。
評価
没後は長らく、南北朝の動乱の原因を作った「不徳の君」という評価が定着していた。上記の北畠顕家上奏文では、「徳行も勲功もない人物に官位をむやみやたらと与えるべきではない」「すぐに変更される法なら無い方がましである」など、政権の混乱を指摘するとともに、しきりに行幸をしたり宴会にふけるなど、後醍醐個人の行いについても厳しく諫めている。『太平記』は南朝を正統とする史観(南朝正統論)で書かれているのだが、その祖である後醍醐天皇は徳を欠いた君主として描かれている。
しかし、江戸時代に徳川光圀の命により水戸藩が編纂した『大日本史』において南朝正統論が強調され、幕末の尊王攘夷の風潮の中で、天皇に忠節を尽くしたかどうかだけが人物の評価基準となる歴史観(皇国史観)が影響力を増した。皇国史観が国定史観化した近代の国定教科書などでは、建武政権は「建武の中興」として「朝廷の御威光は再び盛んになった」と美化され、後醍醐の失政に不満を抱いた武士たちについては「君臣の大義を忘れ」と片づけられている。
皇国史観が影響力を失った戦後には、後醍醐を「無能な野心家」とする評価に戻り、悪い意味で平安時代末期の後白河天皇と比較されるようになっている。なお、後白河天皇とは「中継ぎの天皇として即位したが、結果的に大きな権力を手にした」という共通点がある。
近年では建武政権に対する評価として、伝統的な王権秩序を構成する公家や武家だけでなく被差別民や悪党など社会の周辺勢力をも糾合した「異形の王権」という面が強調されている。例えば真言立川流の始祖文観を登用して自ら幕府調伏の祈祷を行い、三木一草と言われた側近には下級公家の千種忠顕や悪党の楠木正成等を抜擢し、また海賊衆や木地師といった本来公家社会と縁遠い民衆の支援も得ていた(新田一郎『太平記の時代』)。建武政権時の改革の多くはその後の朝廷には引き継がれなかったものの、高師直らに取り入れられ室町幕府の施政に生かされたとする見解もあり、後醍醐という異形の天皇がその後の日本史に与えた影響については様々に議論されている。
人物
儒学のなかでも当時最先端の宋学に浸り、前例のない政策を連発した事で知られる。そのため、後醍醐天皇の事例は、長子相続制などの例外を除き、朝廷の前例としては扱われなくなった。
崩御後につくはずの諡号を、醍醐天皇にあやかって生前に自ら「後醍醐天皇」を考えた異例を作った。有名な肖像画は髭を長く伸ばし、法衣をまとっている異様な姿。自ら北朝を呪う儀式をしたともいう。歴代天皇の中でも、朝廷分裂という異常事態を招いた、かなり異例・異様・異形の天皇として有名。なお、密教への信仰には実利的な意味合いもあり、大寺院の持つ政治力も目当てにしていたと考えられている。(生前に諡号を考えた例としては、ほかに藤原摂関家の専横を嫌い、天皇親政を目指した第71代・後三条天皇があり、後三条帝は様々な改革を断行した「末代の賢主」としてその名を歴史に残している)
また、女性に手を出す事も多く、父の後宮の女性、実の叔母、幼女にまで手を伸ばしている。もっとも、学問や信仰と同じく政治絡みの面が強いのは、その幼女が朝廷の有力貴族の娘だったという点からもうかがえる。
皇統
・皇女
・皇女
・義良親王(第97代・後村上天皇)
- 皇太子妃:二条為子 ー 二条為世の娘
・尊良親王
・宗良親王
・世良親王
- 後宮:民部卿三位
・護良親王
- 後宮:二条藤子 ー 二条為道の娘
・懐良親王
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