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二条河原の落書

にじょうがわらのらくしょ

『建武年間記(建武記)』に収録されている文書である。南北朝時代の京の世相を風刺したとされる。
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概要編集

南北朝時代の建武元年(1334年)8月(建武2年(1335年)8月という説もある)に、建武政権の政庁である京都の二条富小路近くの二条河原(鴨川流域のうち、現在の京都市中京区二条大橋付近)に掲げられた落書とされるもの。


建武の新政による社会的混乱を批判風刺したもので、作者は建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族、京童であるとも言われているが、詳しいことは不明。「此の頃京にはやるもの」というフレーズは『梁塵秘抄』ものづくし篇におさめられた今様にも見え、当時流行した言い回しであったらしい。


全文編集

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨

召人 早馬 虚騒動

生頸 還俗 自由出家

俄大名 迷者

安堵 恩賞 虚軍

本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛

追従讒人 禅律僧 下克上スル成出者


器用ノ堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所

キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ杓持テ 内裏マシワリ珍シヤ

賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ

巧ナリケル詐ハ ヲロカナルニヤヲトルラム


為中美物ニアキミチテ マナ板烏帽子ユカメツヽ 気色メキタル京侍

タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好 イクソハクソヤ数不知 内裏ヲカミト名付タル

人ノ妻鞆めどもノウカレメハ ヨソノミル目モ心地アシ

尾羽ヲレユカムヱセ小鷹 手コトニ誰モスヱタレト 鳥トル事ハ更ニナシ

鉛作ノオホ刀 太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サカリニソ指ホラス


ハサラ扇ノ五骨 ヒロコシヤセ馬薄小袖

日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕

下衆上臈ノキハモナク 大口ニキル美精好


鎧直垂猶不捨 弓モ引ヱヌ犬追物

落馬矢数ニマサリタリ 誰ヲ師匠トナケレトモ

遍ハヤル小笠懸 事新キ風情也


京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌

在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ

譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也


犬田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ 田楽ハナヲハヤル也

茶香十炷ノ寄合モ 鎌倉釣ニ有鹿ト 都ハイトヽ倍増ス


町コトニ立篝屋ハ 荒涼五間板三枚

幕引マワス役所鞆 其数シラス満々リ

諸人ノ敷地不定 半作ノ家是多シ

去年火災ノ空地共 クソ福ニコソナリニケレ

適たまたまノコル家々ハ 点定セラレテ置去ヌ


非職ノ兵仗ハヤリツヽ 路次ノ礼儀辻々ハナシ

花山桃林サヒシクテ 牛馬華洛ニ遍満ス

四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル

朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ 夕ニ賞アル功臣ハ 左右ニオヨハヌ事ソカシ

サセル忠功ナケレトモ 過分ノ昇進スルモアリ 定テ損ソアルラント 仰テ信ヲトルハカリ


天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマサマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル

京童ノ口スサミ 十分ノ一ヲモラスナリ


現代語訳編集

このところ都に流行るものといえば、寝込みの襲撃、強盗、偽の天皇の命令書、緊急収集もよくかかり使いの馬もバタバタと、空騒ぎもあちこちで。道に転がる生首など見飽きて、急に僧侶をやめたものや逆に突然僧侶になったものと出家も何もない。ほかにも突然羽振りがよくなったものや反対に路頭に迷うもの、褒美目当てにありもしない戦をでっちあげるもの、土地を求めて訴状を持ってやってくる田舎者、彼らの持っている証拠文書をいれた細いつづら、おべんちゃらやら悪口の、才能だけはある奴や、コネを持ってる禅・律僧といったぽっと出ての連中を能力なんかは確かめず、お役人にする雑訴決断所。着慣れない冠や公卿装飾、持ちなれない笏を手に内裏に並んでいる様は滑稽だ。


彼らはみな政治に口を出すが、口のうまい噓つきよりも愚直な奴の方がよっぽどまともだ。各所から取り寄せた名品・珍品にも食べ飽きて、烏帽子をまげてかぶっている今どきの流行で下心見え見えなお上りさんな侍共。夕暮れになったら女を求める浮かれポンチなスケベ野郎のなんと多いこと。「内裏の参拝」と称する人妻たちの娼婦も人を見る目が全くない。


毛並みの悪い鷹モドキを誰も彼もが手に入れて手に止まらせて得意顔。そうして手に入れた鷹モドキも鷹狩りなんかせずただのカッコつけなだけの役立たず。

カッコつけといえばこれも最近目立ってきたが、鉛でできた大刀。とても人も切れそうにないそれを太刀よりも大きくこしらえて得意顔をするさまのなんとかっこ悪いことか。


流行りだという今までにない五つ骨の扇、大きな輿に乗るやつも痩せすぎな駄馬に乗るやつもみんな流行りの裏小袖を身にまとう。食料を買うために古い鎧を質に入れ、武士は馬にも乗らず内裏に行くにも籠を使う。かと思えば身分上下の区別なく高級な生地でできた大口袴が大流行り。鎧兜は捨てないが弓も引けなくなり、犬追物をやろうものなら落馬の回数が多すぎて矢を射る数を超える有様。


誰かに師事するわけでなく、笠懸辺りで大流行、皆自己流で新たに一流派興すわけではないけれど、京風や鎌倉風のやり方を、あれもあれもと取り合わた結果、調和のとれないエセ連歌。そこここで開く連歌会、審査員の採点基準も怪しい。誰が選ばれているのか。

旧家新興の区別もなく何でもありな今の世の中。闘犬とともに田楽はそれに耽った鎌倉の最後の得宗高時が、身上つぶした元凶と皆知っているが田楽は今でも大流行り。きき茶・きき香の催しも、鎌倉なみに大流行。


ここ数年で都は急激に大きくなってきた。町ごとに作られている武士の詰め所は全て突貫工事で作られた間に合わせのもの。急場づくりの役所は武士の屋敷のやり方で幕で覆っているばかり。こういった建物が今や数えきれないほど多く作られている。一方で人々は住むところすらままならず、作りかけの家屋も数多い。昨年の大火で焼け落ちて空き地になった場所も復興しつつある。


だが一方で、焼け残った家々は横暴な輩に差し押さえられそこにそのまま放置される。

少し田舎に行って風情を楽しむ者などおらず、公卿も武家も京都にいて保身と出世に奔走する。


天下を統一した頼朝公の定めにより、品だけはあった武士だが今では皆だらしなくなってしまった。朝には牛や馬の世話をして主君に尽くした者が、夕方にはがらりと変わって裏切るのも今の世の中では仕方のないことだ。大した功績などないのにいつの間にか大出世している奴もいる。一方で「そんな昇進をしたところで後できっといいことはないぞ」と天を仰いで嘆いて見せて信用を得ようとする連中もいる。


天下統一はめでたいことだ。いろいろなことを見聞きしては不思議がることができるのも今の世の中に生まれたおかげだ。以上色々書き連ねてきたが、これでも京都の人々が口にする噂の一部分である。

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