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諏訪頼重

すわよりしげ

諏訪頼重とは、中部地方の武将。後述の通りこの名を名乗っていた武将が二名存在し、いずれも諏訪大社大祝として諏訪郡を中心に勢力を有していた。(メイン画像は南北朝時代の方の頼重)
目次 [非表示]

概要

諏訪氏は信濃中部・諏訪郡に勢力を有した豪族であると同時に、信濃一宮である諏訪大社上社の大祝を務めてきた神官でもある。その諏訪家当主で頼重の名を用いていた武将は2名存在する。

諏訪頼重(南北朝時代)

生没:生年不詳-建武2年8月19日(1335年9月6日))

別名:盛継、盛高

入道名:照雲

官途名:三河権守


諏訪頼重(戦国時代)

生没:永正13年(1516年)-天文11年7月21日(1542年8月31日)

別名:頼茂

官途名:刑部大輔


諏訪頼重といえば、かつては軍記物語にドラマや映画などの影響、それに娘の諏訪御料人や外孫・武田勝頼の存在もあってか、戦国武将の頼重の方が知名度はあった。しかし令和年間に入り、松井優征作の漫画『逃げ上手の若君 』の連載が開始されると、主要な登場人物の一人として南北朝期の頼重も活躍。これをきっかけに現在では徐々にではあるが立場が逆になりつつある。


諏訪頼重(南北朝時代)の概要

鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活躍した武将。この当時の諏訪氏は鎌倉幕府の御家人を経て、末期の幕府の実権を掌握していた北条得宗家に御内人として仕えていた。

元弘3年(1333年)、新田義貞に攻められ鎌倉幕府が滅亡した際に、時光(円光入道)や直性(宗経とも)ら一族の者たちが得宗・北条高時を始めとする北条一門や被官らと東光寺で運命を共にする。この時、頼重は本国にあって難を逃れており、後に信濃へ落ち延びてきた高時の次男・時行を匿い養育した。


鎌倉幕府の滅亡により、後醍醐天皇の主導による建武の新政が始動するも、倒幕後の混乱を収拾し切れるものでは到底なく、諏訪氏お膝元の信濃でも、建武政権下で新たに信濃守護となった小笠原氏の支配体制に、諏訪氏が不満を抱き対立関係となるなど、反乱の火種が燻る状態にあった。

そして建武2年7月(1335年5月)、頼重・時継父子は同じくかつての御内人であった滋野氏らと共に、北条時行を奉じて挙兵に及んだ。所謂「中先代の乱」の勃発である。時行軍はまず信濃守護の小笠原貞宗を襲撃、さらに信濃国衙を焼き討ちにして国司を自害に追い込み、信濃を押さえることに成功する。

その勢いに乗じて時行軍は鎌倉へ向けて進軍を開始、武蔵女影原(現・埼玉県日高市)にて迎撃に当たった岩松経家渋川義季らの軍勢を、小手指原(同所沢市)にて今川範満の軍を、武蔵府中で小山秀朝(下野守護)を相次いで撃破。この事態を受けて鎌倉を預かる足利直義も自ら軍勢を率いて迎え撃つも、井出の沢(現・東京都町田市)での合戦でこれを散々に打ち負かすなど、破竹の快進撃を見せた。


こうして鎌倉入りを果たした時行軍は、駿河へと落ち延びていった直義に代わって一時的に鎌倉を掌握、さらに勢いに乗って直義勢を追撃し駿河にて撃破するなど猛威を奮った。しかしそれも束の間、翌8月に入って京から足利尊氏が軍勢を率いて下向してくると、時行軍の優勢も次第に覆されていき、8月19日の辻堂・片瀬原の合戦で尊氏配下の木曾家村の軍勢に大敗した事で、鎌倉の再陥落も時間の問題となった。

建武2年8月19日(1335年9月6日)、頼重は一族43人と鎌倉・勝長寿院で自刃。時行による鎌倉支配もわずか20日ほどで瓦解を迎えた。諏訪氏はその後も頼重の孫・頼継が、逃げ延びた時行に従い北朝方に抗し続けるも、頼継の甥に当たる直頼の代になって室町幕府に降伏。以降は小笠原氏や金刺氏(諏訪大社下社大祝家)といった周辺勢力と対立しつつ、戦国期まで家名を保っていく事となる。


関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 南北朝時代 北条時行

逃げ上手の若君 - 同作の登場人物としての頼重についてはこちらの記事を参照。


諏訪頼重(戦国時代)の概要

信濃の戦国武将。諏訪頼隆の次男として生まれ、子息に寅王(長笈)、諏訪御料人武田信玄側室)が、外孫に諏訪勝頼(武田勝頼)がいる。


幼少期に大祝を務めた後、天文8年(1539年)に祖父・諏訪頼満の死を受けて(父・頼隆は享禄3年(1530年)に病没)家督を継承、諏訪氏(諏訪惣領家)19代当主となる。

頼重が家督を継ぐまでの段階で、諏訪氏は頼満の元で諏訪一帯を統一し、さらに甲斐の武田信虎との抗争を経て同盟を締結するなど、積極的な領国拡大により諏訪氏の最盛期を現出していた。頼重も武田氏との同盟の一環として、信虎の三女(禰々)を正室として迎えており、家督継承後も信虎や村上義清と共同で信濃小県郡へ侵攻、真田幸隆ら海野一族(真田氏の本家筋)を当地より追放するなど、引き続き良好な関係を維持していた。


ところが、天文10年(1541年)に武田信虎が甲斐より追放され、嫡男の晴信(信玄)が武田氏を継ぐと、武田氏は盟約違反(※)を理由に信濃への侵攻を開始、諏訪と武田の同盟関係も呆気なく瓦解する事となる。

翌天文11年(1542年)、諏訪氏の庶流であった伊那の高遠頼継や金刺氏と結託の上、晴信は諏訪領へと侵攻、対する頼重も矢崎原にて武田軍と対峙するもその戦力差は明白であり、已む無く居城の上原城を放棄し支城の桑原城へと後退した。そして7月4日、武田からの和睦を呑んで頼重は降伏、その身柄は甲府へと連行された後、実弟の頼高と共に幽閉先の東光寺にて自害に追い込まれた。時に天文11年7月21日(1542年8月31日)、享年27であった。


おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ」(辞世の句)


頼重の死により、諏訪惣領家は断絶となり、遺児である寅王も僧籍に入れられた後出奔、駿河の今川義元の元へ亡命しようとした途上で殺害されたとも、越後の長尾景虎に庇護されたなどとも伝わるがいずれも定かではない。

一方で諏訪惣領家の名跡は、頼重の娘・諏訪御料人を生母に持つ信玄の四男・勝頼が相続(異説あり)したが、長兄・義信の廃嫡後武田に復姓。また諏訪大社の大祝職は頼重の従弟に当たる諏訪頼忠が継承した。

武田氏の滅亡後はその頼忠が旧領を回復し惣領家を再興。後に頼忠は徳川家康に従って諏訪を離れるも、江戸期に入り諏訪頼水(頼忠の嫡男)が再度旧領に復帰、その子孫も諏訪藩(高島藩)主として幕末に至るまで信濃を治め続けた。


(※ この盟約違反は、前出の海野一族の当主・海野棟綱の要請による、関東管領・上杉憲政の佐久出兵に際して、頼重が武田・村上に黙って山内上杉氏と領地割譲を含んだ講和に及んだ事を指したものであると見られている)


ドラマなどでの演者

NHK大河ドラマ

・映画・民放ドラマ

ちなみに上2作品では「頼茂」表記になっている。


関連タグ

戦国時代 中部勢

諏訪姫 禰々 武田勝頼 武田信玄 村上義清

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