中先代の乱
なかせんだいのらん
”中先代の乱”とは、建武の新政の失敗に乗じて鎌倉幕府残党が起こした叛乱である。
歴史的に見て、この戦乱から南朝と北朝の対立する時代が始まり、鎌倉幕府滅亡から続く長い戦乱のターニングポイントなった戦いである。
鎌倉幕府滅亡
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇による「鎌倉幕府打倒」の密議が天皇の近臣・吉田定房の密告により発覚、天皇は廃されて光厳天皇が即位、廃された天皇は隠岐に流されたが、北条一族が牛耳る幕政運営に対する不満は各地でくすぶりつづけた。
元弘3年/正慶2年(1333年)、幕府打倒を目指して比叡山延暦寺天台座主・護良親王が挙兵、これに呼応して楠木正成、赤松円心らも鎌倉幕府に反旗を翻した。
同年4月、ことを重く見た幕府は北条高家、足利高氏(後の足利尊氏)を大将とする鎮圧軍を派遣、しかし、大将の1人・北条高家が戦死したことで高氏は討幕軍に寝返り、赤松円心、佐々木道誉らと六波羅探題攻略へと兵を進めた。
一方、新田義貞らが3歳の足利千寿王(高氏の嫡男、後の足利義詮)を名目上の大将として鎌倉へと侵攻、5月22日には陥落し得宗・北条高時をはじめとする北条一族、長崎円喜・高資父子をはじめとする近臣は自害、鎌倉幕府は滅亡した。
建武の新政
元弘3年/正慶2年(1333年)7月、京に戻った後醍醐天皇は、鎌倉幕府が奉じた光厳天皇を廃して復位。元弘4年(1334年)に建武と改元したことにより、後醍醐天皇の治政は、後世「建武の新政・建武の中興」と称されることとなった。
しかし、様々な理由からこの施政に全国の武士は不満を募らせていく。
武家や武士の不満が高まるなか、建武2年(1335年)5月、北条家とつながりがあった公家・西園寺公宗と北条高時の実弟・泰家による後醍醐天皇暗殺の謀議が発覚、泰家が逃亡する事件が起こった。
同年7月、各地で旧幕府残党の叛乱が続発、ついには信濃国で諏訪頼重・時光父子が得宗・北条高時の次男・時行を擁して蜂起、時行のもとには3万の兵が集まった。
鎌倉攻略に向かう叛乱軍に朝廷軍は次々に敗れ、迎撃に出陣した足利直義も惨敗、直義は政争に敗れた護良親王が叛乱軍と糾合することを恐れて殺害すると、尊氏の嫡男・千寿王をともなって鎌倉を捨てて逃げ出してしまう。
これらの事態に、勅命を受けずに足利尊氏が下向し叛乱軍を鎮圧、尊氏は直義と合流して鎌倉に入る。恩賞の沙汰は直義が独断で行うが、これによって尊氏・直義兄弟は朝敵となり、新田義貞率いる追討軍が派遣されることとなり、南北朝時代の始まりとなった。