長崎円喜
ながさきえんき
生没:生年不詳 - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日)
別名:三郎、盛宗、高綱、長崎入道
官位:左衛門尉
鎌倉幕府執権として、幕政を主導してきた北条氏本家(得宗家)の被官(御内人)。円喜の名乗りは出家して以降の法名であり、俗名は盛宗、もしくは高綱とされる(※1)。得宗家当主である北条貞時・高時と二代に亘って仕え、得宗家外戚で秋田城介である安達時顕とともに、内管領として末期の鎌倉幕府を主導した。弟に鎌倉幕府奉行人として円喜を補佐した長崎高頼(※2)、子に内管領職を継いだ長崎高資がいる。
得宗家執事(内管領)の職にあった長崎光綱の子として生を受ける。前述の通り生年は不詳で、その前半生については謎も多く残されているが、史料上の初見である永仁2年(1294年)当時、同族で当時の幕府の実力者であった平頼綱とその一族が粛清され(平禅門の乱)、また父・光綱も程なくして没した事もあり、少なくとも嘉元年間に入るまでの数年間は、盛宗を始めとする長崎氏にとって不遇の時期であったと見られる。
そんな不遇の時期も、嘉元3年(1305年)、嘉元の乱で時の内管領であった北条宗方らが討伐された事により俄かに流れが一変する事となる。宗方の死により、彼が務めていた内管領・侍所所司の職は盛宗が引き継ぐ事となり、またこの事件を経て得宗家当主・北条貞時が政務への意欲を失った事で、幕政の主導権は盛宗ら御内人や北条氏の外戚・庶家を中心とした寄合衆へと移行。必然的に幕政に占める盛宗の存在感も増していく事となった。
延慶2年(1309年)頃に出家し円喜と号し、その際に侍所所司の職も次男の高貞に譲渡。応長元年(1311年)に執権・北条師時、そして得宗家当主・北条貞時が相次いで死去すると、今際の際の貞時より、嫡男・高時を後見するよう安達時顕と共に託されている。これ以降、幼少の高時を補佐し、内管領としての権力を背景に寄合衆を主導した。
正和5年(1316年)頃に内管領の職を嫡男・高資に譲ってからは、正中元年(1324年)の正中の変に際して鎌倉へ下向した万里小路宣房に安達時顕と共に対面した事、またその際に円喜の意向により比較的穏便な処置がなされたと京都で噂された事以外には、円喜本人による表立った活動はほぼほぼ見られなくなるが、前述の通り内管領や侍所所司、そして寄合の各職が世襲により長崎一門によって独占された事で、その後も幕政に大きな影響力を残す格好となった。
そんな長崎氏主導による幕政も、元弘年間に入ってからの倒幕運動(元弘の乱)を機に終焉へと向かい出し、元弘3年/正慶2年(1333年)5月には足利高氏らにより六波羅が陥落、程なく鎌倉にも新田義貞らを中心とした軍勢が迫り、幕府滅亡は最早時間の問題となった。
同年5月22日(1333年7月4日)、追いつめられた北条一門やその郎党ら数百名は、鎌倉・東勝寺にて皆自害して果てた。円喜や嫡男・高資らもまた例外ではなく、長崎一門も滅びゆく幕府や主家と命運を共にしたのである。
(※1 一般的には長崎高綱の名乗りの方で知られており、系図類からも高綱の名が確認されているが、一方で偏諱を与えたと見られる北条高時の元服が、円喜の出家するわずか数ヶ月前であり、また円喜と共に高時の後見を任された安達時顕も、(同じく生年不詳ではあるものの)少なくとも霜月騒動の時点までに生を受けている。この事から、俗名はまた別にあったという見解が示されており、同時代の史料上に見受けられる「長崎左衛門尉盛宗」はその最有力候補と考えられている)
(※2 元弘年間の初期、未然に終わった長崎高資排除の企てが発覚した際、その中心人物の一人として奥州へ流され、以降の動向は不明となっている)