概要
鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が尾藤景綱を家令に任じたのが始まりとされ、得宗家の執事を『内管領』と呼ぶようになったのは第8代執権・北条時宗とその子で第9代執権・貞時時代の平頼綱からとされる。
頼綱が平禅門の乱で討たれたのちは貞時の従兄弟・宗方が内管領の職務を行い『内執権』と称したが、宗方が嘉元の乱で成敗されると頼綱の一族である長崎高綱(円喜)が登用されて内管領が復活した。
幕府末期ともなるとその権勢はますます増大し、北条高時の代ともなれば「名目上の幕府トップ」である将軍の名において「名目上幕府の実権を握った」執権の名において内管領である長崎家が事実上幕府を動かす、という非常にややこしい政治体制となっていた(なお、執権も後期においては北条得宗家当主と必ずしも一致せず、得宗の傀儡として執権が置かれることもあった。見方によっては、天皇→(治天の君→)将軍→執権→得宗→内管領という、名実分離がしばしば発生する日本史上でも類を見ない五重(六重)権力体制になっていたとも言える)。当然のことながら、このような体制で実権を振るう者はそれを裏付ける権威が無いか極めて希薄であるため(形式上、将軍は天皇の直臣だが、内管領に至ってはその将軍の直臣ですらなく陪臣である)、政策は先例主義・形式主義的なものにならざるをえなくなり、政治の停滞と硬直が横行する事となった。
これは間もなく鎌倉幕府そのものの崩壊を招くこととなる。