平頼綱
たいらのよりつな
仁治2年(1241年)~正応6年4月22日(1293年5月29日)
地位向上と権力闘争
頼綱の家系は、北条氏が伊豆の一豪族だった頃からの家臣であり、頼綱もまた御内人として主君・北条時宗の命を実行する任に当たっていた。その後も順調に地位を向上させていき、文永年間には得宗家(北条氏の本家)の執事(内管領)となった他、幕政における合議体である「寄合衆」の一員にも名を連ねている。
しかし、こうした頼綱の地位の向上とそれに伴う勢力の拡大は、必然的に他の勢力との対立を生じさせる事にも繋がっていく。とりわけ、時宗の外戚でもあった安達泰盛とは、彼が外様の御家人の代表格とも言える立場であった事から反目著しく、蒙古襲来(元寇)に対する戦時体制の強化に伴って得宗家の権力が拡大していくにつれ、その対立もまた先鋭化の一途を辿る事となった。
それでも時宗の存命中は、彼が両者間を取り持つ形で辛うじて調和が保たれていたが、それも弘安7年(1284年)の時宗の逝去によって瓦解を迎える事となる。時宗に代わってその嫡男・貞時が執権に就任すると、泰盛は貞時の外祖父の立場を背景に政権を主導、時宗の在世時より進めていた御家人制度の立て直しと共に、得宗・御内人の権力抑制を図ろうとするが、得宗被官である頼綱や他の御内人にとってこの施策は当然看過できるものではなかった。
そして翌弘安8年(1285年)11月、「泰盛の嫡男・宗景が謀反を起こそうとしている」という讒言をきっかけとして、両者は遂に武力衝突に及ぶ。後世、霜月騒動と呼ばれるこの抗争の結果、泰盛一族やそれに与していた御家人たちが討滅の憂き目に遭った事は、幕府草創期からの有力御家人による集団指導体制の事実上の崩壊と同時に、北条得宗家による専制の決定的な確立をも意味するものであった。
恐怖政治
得宗専制が確固たるものとなったとはいえ、執権・貞時は未だ若年で幕政を主導するには力不足であり、必然的に頼綱を中心とした寄合衆が幕政運営を主導する格好となった。しかしそんな頼綱の目前には、致命的かつ覆し難い問題が横たわっていた。
そもそも名目上とはいえ、幕府の頂点たる将軍家の直臣である御家人層に対して、本来その御家人の一つである北条氏の陪臣に過ぎない御内人とは身分に埋めがたい隔たりがあり、彼ら御家人たちが属する評定衆・引付衆などといった幕府の主要機関を差し置く形での幕政運営は、実質的に幕府の第一人者となった頼綱であっても容易なものではなかったのである。
この如何ともし難い状況に対して、頼綱の取った選択は御内人など得宗被官に幕府主要機関への監察権を与え、そこに属する御家人たちの動向を厳しく監視・取り締まる事で、本来身分が上である彼等のさらに上位に立つ、というものであった。
また当初は御家人保護の姿勢を打ち出し、手続きを重視していた頼綱の政治姿勢も、時の将軍・源惟康が親王宣下によって皇籍復帰した(惟康親王)辺りから、次第に変化が見られるようになっていく。
そうした姿勢の変化が顕著に表れている一例として、九州方面での直接支配の強化が挙げられる。元々蒙古襲来の後、直接的に防衛に当たった九州の御家人たちの恩賞・訴訟問題を取り扱う機関として、「鎮西談義所」と呼ばれる合議制の機関が置かれていたが、頼綱政権下においてはこれに代わって得宗派による「鎮西探題」が置かれた。鎮西探題は蒙古からの三度の攻撃の可能性を根拠に、九州を始めとする西国各地の荘園などへの支配を強める一方、在地の御家人たちへ与えられるはずの恩賞は極めて手薄いものとなったのである。
このように得宗権力の強化、そして御家人を軽視した施策が推し進められる中、先述した得宗被官の監察権は御家人たちのみならず市井の人間にまで振るわれ、「諸人、恐懼の外他事なき(皆恐れはばかるより他になかった)」との「恐怖政治」とも称される程の強圧的な独裁・専制へと移行していった。
平禅門の乱
7年余りに亘る恐怖政治により、自身のみならず一族もが高い官位を得て豪奢な暮らしぶりを送るなど、頼綱は主君であるはずの執権・貞時をもしのぐ権勢を獲得した。その一方で、幕政を私する頼綱への反感は幕府内外のみならず、成長した執権・貞時の中にも次第に醸成されていく事となる。
そんな中、正応6年(1293年)に頼綱の嫡子・宗綱よりもたらされた「頼綱と飯沼資宗(頼綱の次男)に叛意あり」という密告は、頼綱一族を討滅する格好の口実となった。貞時は直前に発生した鎌倉大地震の混乱に乗じ、手の者に経師ヶ谷の頼綱邸を襲撃させ、結果頼綱とその一族90名余りは呆気なく粛清された(平禅門の乱)。
頼綱の死後、鎌倉幕府では実権を回復した貞時による親政が行われ、これにより御内人の勢力もしばし後退する事となるが、頼綱の弟(従弟とも)である長崎光綱は貞時政権下においても引き続き重用され、頼綱を輩出した長崎一族の命脈もまた保たれる事となった。
そして貞時が執権を退いた後発生した「嘉元の乱」を経て、貞時が政務への意欲を失っていくにつれ、長崎氏ら御内人が再び幕府の実権を掌握していくのである。
2001年放送のNHK大河ドラマ『北条時宗』では、北村一輝の怪演によって時宗に対する忠誠心と敵に対する残虐さを併せ持った人物として描かれている。
初登場は第12話『暗殺』。ドラマでの頼綱は生まれも確かではない孤児で、当初は『八郎』と名乗っていた。覆面をした幕府の要人から、位にしがみつく時の執権・北条長時の暗殺を依頼されこれを実行。後に日蓮に降りかかった危機を助けたことをきっかけに(長時暗殺の件をダシに泰盛を脅迫したも同然で)召し抱えられ、そこで時宗と出会うことになる。
『平頼綱』という名は時宗から得宗家公文所の所司の役目を与えられた際、「身内ではない八郎をいきなり役職に就けては周りの者も黙ってはいない」との理由により時宗夫妻の勧めで平盛綱の養子となった際に時宗から貰った名前となっている。ちなみに長時暗殺の実行犯であることは第30話で自ら明かすまでは時宗には知らされていない。
日蓮に本性を見抜かれて狂ったように殴りつけたり、後述の通り蒙古軍の捕虜を皆殺しにしたり、さらに北条時輔の討伐後に時宗と刺し違えようとした彼の正室を斬り捨てるなど、容赦のなさや正規の御家人が持っている「武士の心」を持たない一面が、作中でもしばしば強調されている。
その一方、時宗個人への忠誠心はほとんど犬と言えるものであり、時宗に仕えるようになってから第22話『京の闇』で披かれた婚儀の席で「妻の実家(飛鳥井家)の者が怒ってまいる」との理由で時宗から直々に禁止されるまで「もったいのうございます、某のようなものが」という言葉が口癖となっていた。
ちなみにこの縁談の際、頼綱は「某は一生妻を娶らず、時宗様に尽くすつもりでございます!」と堂々と宣言しているが、時宗の命もあって結局は結婚。夫婦共々時宗の子の乳母(めのと、要は養育係)となる。
北条教時が放った刺客によって、時宗の妻子が襲われた際は身を挺して2人を守り、背中と脚を射られる大怪我を負いながらも自らの身に刺さった矢を抜いて刺客を返り討ちにし、刺客から首謀者の名前を訊きだすことに成功した。この事件に激怒した時宗の命により二月騒動が勃発、頼綱は怪我を理由に館の防衛を命じられるも彼の強い懇願により怪我を押して戦場へ乗り込む。そして名越の館に乗り込んだ頼綱は教時の兄・時章の最期を見届けた。
文永の役では時宗の命により博多湾での闘いに参戦(この際、「時宗様はわしに飽きられたのじゃあ!」とショックのあまり流血するほど頭を執拗に打ち付けて泣き叫んでいる)、蒙古兵を「敵は物の怪じゃ」と執拗に斬りつけて少弐景資から注意を受け、逆ギレに及んでもいる。
暗殺の件から因縁深い泰盛とは時が経ち、頼綱が幕府内で力を付けていくにしたがって対立するようになる。泰盛が貞時の烏帽子親になろうとした時は先に第7代征夷大将軍・惟康親王に依頼、泰盛の企みを妨害する。さらに弘安の役の最中に政策をめぐって対立し、時宗と刺し違える覚悟で執権館へと赴いた泰盛を、八郎時代の装束を纏って襲撃する。
その時宗への際どいまでの忠誠心は最後まで変わることがなく、最終話で時宗が亡くなった際は人目をはばからず大声で泣き叫び、妻からビンタを喰らうまで魂が抜けたように体育座りで凹んでいた。
「時宗様はわしの光じゃった・・・。たったひとり、わしを認めてくれた方じゃった・・・。」
- 蒼き狼と白き牝鹿Ⅳ
1271年のシナリオに鎌倉幕府の将軍として登場。
戦闘が低く智謀と政治がそこそこの能力値を持つ人物で商業スキルもある為、内政要員として役には立つ。ただし同じ内政向けであるライバルの安達泰盛の方が能力値は高く内政スキルの数も多い。
湧くWork・熱海温泉−温泉誌作成実行委員会編(3)=「平左衛門地獄」の伝承 13世紀末期、大地震で自噴・・・伊豆新聞2014年12月26日の記事より。
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