概要
1285(弘安8)年11月、執権北条貞時と姻戚関係にあった有力御家人の安達泰盛一族が、内管領の平頼綱らに滅ぼされた事件。
別名・表記ゆれ
泰盛の官職から秋田城介の乱、当時の元号から弘安合戦とも言う。
事件の背景
安達氏について
権勢の確立
安達氏は頼朝挙兵以来の重臣で、頼朝の側近として活躍した安達盛長の息子景盛は、北条義時・大江広元らと共に三代将軍実朝期の幕政で中心的立場を強めていく。建保六(1218)年、景盛は秋田城介(あきたじょうのすけ)に任じられる。これは、武家の名誉職であると共に、御家人として国司に就任し、北条氏の立場と同格になったことを意味する。景盛以降、安達氏は秋田城介を世襲し、秋田城介氏とも称されるようになる。
その後、出家した景盛は、明恵上人への帰依を通して次期執権北条泰時との関係を深めていく(諸説在り)。景盛の娘松下禅尼が泰時の長子時氏と結婚し、生まれた二子(経時・時頼)は、2人とも執権に就任したことにより、北条の外戚としての安達氏の権力が確立されていく。
外戚としての繁栄
時頼期には、北条氏の秘密会議である寄合に景盛の息子義景が加わっている。宝治合戦の際には、景盛を中心として三浦氏追討を主導した。
建長四(1251)年4月、義景は引付衆五番頭人に就任し、幕政に於ける主導者の一人に列せられる。
その子泰盛は、父親の権力を継承し、寛元二(1253)年に上野守護、建長五(1253)年、引付衆に加わり、翌年秋田城介に任じられる。康元元(1256)年4月、引付五番頭人に就任し、同年6月、評定衆に列せられる。以降、泰盛を中心とした安達一門及びその姻戚から多くの評定衆・引付衆が任命されることになる。
元寇における恩賞奉行としての活動を始め、泰盛は御家人の権利保護を優先する政策方針を執る。
弘安徳政
弘安七(1284)年4月、執権北条時宗が死亡し、7月に14歳の嫡男貞時が執権に就任する。貞時の生母は泰盛の妹であり、執権の外叔父として権威を持った泰盛により、幕府の統治権強化と御家人体制の維持を基盤とした政策が展開される。
将軍の心がけを解いた「新御式目」の制定、諸国の寺社支配の強化、将軍の領地である関東御領からの徴税、裁判制度の見直し、河川・港湾の通行税(河手・津料)の徴収禁止、御家人の所領回復といった、この時期の泰盛による強権且つ急進的な一連の改革は、当時の京都に於ける亀山院政と合わせて「弘安徳政」と呼ばれる。
一方で、同時期に北条氏の被官として発言力を増していた御内人勢力は、御家人からの所領買入や海運業の利益が大きな収入源であったため、これらの改革をよく思わなかった。
中でも貞時の乳父で内管領の平頼綱は、御家人擁護派の泰盛と血縁的にも対抗勢力として増長し、御内人――御家人間の平衡を保っていた時宗の死によってその溝は深まっていく。御内人に加えて、泰盛の性急な寺社領保護方針により、寺社への還付を命じられた一部御家人や公家の反感を招いたことで、泰盛は次第に政治的に孤立していく事になる。
弘安合戦
史書「保暦間記」によると、頼綱は泰盛の嫡男宗景が源姓を名乗ったことを、将軍になる野心があると貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得たという。
弘安八(1285)年11月17日、貞時の元に参上するために松谷の別邸を出発した泰盛の行く手を御内人が阻んだことをきっかけに戦が起こり、約40名の死傷者が出た。この衝突をきっかけに争乱が拡大し、将軍の御所も炎上した。
午後4時、安達勢は大敗し、泰盛とその一族500名余りが自害して果てた。
泰盛らの死を皮切りに、各地で安達氏の分家や姻戚の諸家、守護国であった上野・武蔵の御家人が滅亡していく一方で、内管領平頼綱が幕政の中枢に現れる。彼は安達氏の没官領を反安達派の御家人に分配し、それまでの評定衆・引付衆の役割を形骸化させ、寄合への出席者を寄合衆として制度化するなど、実権を掌握した。弘安九(1286)年7月には九州の御家人が訴訟のために関東や六波羅探題に参向することを制限し、九州の訴訟は現地の鎮西談議所で行うよう定めた。これは泰盛の進めた鎮西神領・名主職回復政策(蒙古襲来で功績のあった寺社や領主の失った所領回復を狙った法令。しかし、既に売却されていた所領の現在の持ち主は排除されるため、現地での対立が深刻化した)で生じた混乱を是正する意図があったと考えられる。
一方で寺社や貴族が主体の特別な訴訟を優先して取り上げる手続きを定めた。まずは奉行人や引付が審理を速やかに進めることを第一優先事項とするが、万一遅延する場合は、頼綱やその親族を中心に構成された特別窓口を通して訴えるように定めた。これは現代のお役所仕事でもたまに行われるように、業務が混雑して遅延する場合に、通常ではない特別なルートを通して一部の重要事項を処理する方式であるが、不正や賄賂の温床になる一長一短の政策であった。また頼綱は、将軍源惟康の親王宣下の要求など、朝廷の政治にも介入していく。いずれにせよ、御内人等、幕府特権階級の権益保護を優先する頼綱の方針は、得宗家や一般御家人にとって愉快なものではなかった。
永仁元(1293)年4月、貞時によって頼綱は滅ぼされる(平禅門の乱)。「保暦間記」では、溺愛していた次男の資宗を将軍に就けようとする陰謀を、嫡子宗綱に密告されたことが原因とする。貞時は霜月騒動に連座して失脚していた幕僚の復権や賞罰の見直しを行い、引付制度の改革や御家人所領流出規制(執奏の設置・永仁の徳政令など)などの方針をとり、貞時勢力を中心とする得宗専制体勢確立を目指す体制へと移行していく。
しかし貞時は次第に酒におぼれて精彩を欠いていくことになり、実権は貞時正室・覚海円成の又従兄妹である安達時顕(泰盛の弟・顕盛の孫)と頼綱の同族である長崎円喜が握ることになる。