安達景盛
あだちかげもり
生涯
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に古くから仕えた安達盛長を父に持つ御家人。
源頼朝の死後、父・頼朝の跡を継いだ2代将軍・頼家に仕えたが折り合いが悪く、建仁3年(1203年)9月に頼家が修善寺に幽閉されると、頼家は弟・千幡(後の源実朝)の元服に参列した景盛に怒りをあらわにし、母・政子に景盛の身柄を引き渡して罰することができるよう要求する手紙を送っている。
頼家の死後、3代将軍・実朝、政子の信頼厚い側近として仕える。
元久2年(1205年)に起きた「畠山重忠の乱」では幕府軍の先陣を切って戦い、牧氏事件終結後には平賀朝雅誅殺を執権・北条義時邸において評議に加わり、宇都宮朝綱に謀反の疑いがかけられたときにも評議に加わっている。
建保6年(1218年)、実朝の右近衛少将任官とともに秋田城介に任じられる。安達氏は霜月騒動で一族が没落した一時期を除いて秋田城介を世襲、武蔵・上野・出羽に強固な基盤を築いた。
建保7年(1219年)3月、実朝が暗殺される事件が起きると高野山において出家、実朝の菩提を弔う金剛三昧院を建立し大蓮坊覚智を名乗るが、出家後も高野山にありながら幕政に参与する。
承久3年(1221年)5月、承久の乱が勃発すると、鎌倉に赴いて対応策を協議、尼将軍・北条政子の檄文を代読し、北条泰時率いる東海道軍に参陣、乱の終結後、摂津国守護に任じられる。
得宗北条氏と密接な関係にあり、北条泰時(3代執権)の長男・時氏に娘・松下禅尼を娶せて後に執権となる経時・時頼兄弟の外祖父となり、権勢を極める。
宝治元年(1247年)、5代執権・北条時頼と有力御家人・三浦氏の対立が激化すると、景盛は三浦氏打倒を強硬に主張、妥協を模索していた北条時頼を説得したり、子の安達義景、孫の泰盛を𠮟責して挙兵にもちこみ、三浦一族を滅亡に追い込んだ。
翌宝治2年(1248年)5月18日、高野山において死去。
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鎌倉を舞台にしたお話の二次創作です。本物は一切関係ありません。誹謗中傷の意図もありません。三代目鎌倉殿が暗殺された後に、安達景盛が哀しんで出家した事を泰時と盛綱に報告(文)する内容。文の中ではあえて幼少名でやり取りしてます。思い出話半分、鎌倉殿逝去による悲しみ、義時をあまり強く非難出来ないという色んな感情が混じる内容。本物汚さないで、二次創作無理という方は回れ右。3,100文字pixiv小説作品- 時のかたみに
雪は降りつつ
建保五年三月~建保七年正月。唐船の完成直前から、運命の雪の日までの実朝と泰時の話です。今回諸事情で時間がかかってしまいました。 頼家も実朝も近年再評価が進んでいますが、あの日あの場所で命を落とした事実そのものは動かないわけで、なんともやるせない気持ちになります。 ドラマの実朝と泰時の間に流れるあの絶妙な空気感が大好物なのですが、私の筆力ではいまいち表現しきれないのが残念。初登場のトキューサと初ちゃん(と仲章)は書いていて楽しかったです。安達景盛はドラマにもいましたが、キャラがいまいちわからないので捏造気味です。 ドラマでははっきり描かれませんでしたが、讃岐守辞退の件の後に義時から侍所別当を譲られる泰時、というのはなかなか味わい深いものがあります。執権を継いだのは父の没後ですが、少なくとも侍所別当は父から直接引き継ぐことができたんだなあと思うと…。あと事件後に悲嘆にくれる御家人たちはどうしても入れたくて。頼朝のときでさえ出家した人はそう多くないのに、景盛を含む百人前後が出家したというのは、実朝が御家人たちに慕われ期待を寄せられていた何よりの証拠だと思うのです。 作中に使わせてもらった泰時の和歌は『東撰和歌六帖』より。実際に詠んだ時期は不明ですが、一枝だけ散り残った花という地味なところに目を留めるあたりがなんとも泰時らしくて好きです。 執筆時BGM:https://www.youtube.com/watch?v=XCcdeiXapsE19,501文字pixiv小説作品