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生没年編集

生年 不詳

没年 宝治2年5月18日(1248年6月11日)

生涯編集

鎌倉幕府初代将軍源頼朝に古くから仕えた安達盛長を父に持つ御家人。

源頼朝の死後、父・頼朝の跡を継いだ2代将軍・頼家に仕えたが折り合いが悪く、建仁3年(1203年)9月に頼家が修善寺に幽閉されると、頼家は弟・千幡(後の源実朝)の元服に参列した景盛に怒りをあらわにし、母・政子に景盛の身柄を引き渡して罰することができるよう要求する手紙を送っている。


頼家の死後、3代将軍・実朝、政子の信頼厚い側近として仕える。

元久2年(1205年)に起きた「畠山重忠の乱」では幕府軍の先陣を切って戦い、牧氏事件終結後には平賀朝雅誅殺を執権北条義時邸において評議に加わり、宇都宮朝綱に謀反の疑いがかけられたときにも評議に加わっている。


建保6年(1218年)、実朝の右近衛少将任官とともに秋田城介に任じられる。安達氏は霜月騒動で一族が没落した一時期を除いて秋田城介を世襲、武蔵・上野・出羽に強固な基盤を築いた。


建保7年(1219年)3月、実朝が暗殺される事件が起きると高野山において出家、実朝の菩提を弔う金剛三昧院を建立し大蓮坊覚智を名乗るが、出家後も高野山にありながら幕政に参与する。


承久3年(1221年)5月、承久の乱が勃発すると、鎌倉に赴いて対応策を協議、尼将軍・北条政子の檄文を代読し、北条泰時率いる東海道軍に参陣、乱の終結後、摂津国守護に任じられる。


得宗北条氏と密接な関係にあり、北条泰時(3代執権)の長男・時氏に娘・松下禅尼を娶せて後に執権となる経時時頼兄弟の外祖父となり、権勢を極める。


宝治元年(1247年)、5代執権・北条時頼と有力御家人・三浦氏の対立が激化すると、景盛は三浦氏打倒を強硬に主張、妥協を模索していた北条時頼を説得したり、子の安達義景、孫の泰盛を𠮟責して挙兵にもちこみ、三浦一族を滅亡に追い込んだ。


翌宝治2年(1248年)5月18日、高野山において死去。

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鎌倉時代 鎌倉幕府 安達氏 安達泰盛

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