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北条時氏

ほうじょうときうじ

鎌倉幕府・第3代執権・北条泰時の嫡男。父に代わって六波羅探題北方を務めた。
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概要編集

生没年 建仁3年(1203年)~寛喜2年(1230年)6月18日

官位 従五位下・修理亮

 鎌倉幕府第3代執権北条泰時を父に生まれる。母は三浦義村の娘である矢部禅尼。異母弟に北条時実。妻は第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼、阿蘇流北条氏の祖となった北条時定の母となった安達景盛の娘(松下禅尼)である。他に時頼の妹として、足利尊氏の高祖母である足利泰氏正室がおり、尊氏曽祖父の足利頼氏を産んでいる。


承久の乱編集

 承久3年(1221年)5月、幕府と対立を深めていた後鳥羽上皇が「北条義時追討の院宣」を発して兵を挙げた(承久の乱)。この報を受けた義時は嫡男・泰時と弟・時房を大将として大軍を派遣。この時、時氏も父・泰時に従い宇治川の戦いで功を挙げたと伝えられている。

 乱の終結後幕府は京の都の治安維持と朝廷との折衝・監視のために、六波羅に探題を置き、北方に泰時、南方に時房を置くこととなった(六波羅探題)。


六波羅探題北方に就任編集

元仁元年(1224年)、安達景盛の娘との間に嫡男・藻上(のちの北条経時)が生まれる。

また、同年6月13日に祖父・義時が62歳で死去したことにより後継執権となる泰時に代わって上洛、六波羅探題北方に就任する。

安貞元年(1227年)5月14日、京において次男・戒寿(のちの北条時頼)が生まれる。

また、同年6月18日、弟・時実が家人・高橋次郎に殺害される。

寛喜2年(1230年)、病を得て六波羅探題北方を辞任、鎌倉に帰還し治療・病気平癒の祈祷にあたったが、6月18日死去。享年28歳。


時氏没後12年を経て泰時が亡くなり、上記のように泰時の子が死に絶えていたため経時が18歳で第4代執権となった。しかし北条一門内では後継執権を巡って暗闘がおこなわれ、その後見人として三浦泰村などの有力御家人、さらには第4代将軍・九条頼経もそれら反経時勢力を糾合して権威の回復を図ろうとするなど波乱含みの政権運営となった。

その結果精神をすり減らしたのか、執権就任から4年を満たずに経時は22歳の若さで死去。時頼が第5代執権となってそれら反抗勢力を一掃することに成功した。


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北条氏 北条泰時 北条経時 北条時頼

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