概要
生没年 弘安元年(1278年)~嘉元3年5月4日(1305年5月27日)
鎌倉幕府第8代執権・北条時宗の異母弟・宗頼の次男。兄・兼時も父の跡を継いで長門探題から六波羅探題南方に就任、元の来寇にあたった。宗頼が早世したことにより、後に第10代執権となる従兄・師時(時宗の実弟・宗政の長男)とともに時宗の猶子(相続権のない養子)となる(時宗の嫡男で次期得宗となる貞時には兄弟がおらず、北条氏嫡流に近い師時、兼時・宗方兄弟を貞時の与力とする意図があったらしい)。
六波羅探題
永仁5年(1297年)6月、20歳で六波羅探題北方に就任。7月には連署・北条宣時の嫡男・宗宣が南方に就任。なお本来であれば家格でも上位であり、北方でもある宗方が上席である執権探題となるが、政治実務経験に勝る39歳の宗宣が執権探題とされ、京の治安維持、朝廷との折衝、いつあるともわからない3度目の元軍襲来の脅威への備え、「永仁の徳政令」の公布にあたることとなった。
嘉元の乱
正安3年(1301年)、六波羅探題北方に辞して鎌倉に帰り、引付頭人から越訴頭人に就任。なお同年8月には執権・貞時が、10月には連署・宣時が職を辞し出家。執権には師時が、連署には時村が就くこととなった。
寛元2年(1304年)12月、「平禅門の乱」(正応6年(1293年)に内管領・平頼綱が執権・北条貞時に滅ばされた事件)以降空席となっていた内管領に就任。
寛元3年(1305年)4月23日、時村邸を襲い討ち取るが、5月2日には時村邸を襲った配下の者が処刑され、4日貞時の命を受けた宗宣・宇都宮貞綱が追手を差し向けるなか、師時邸に出頭したところを討たれた(嘉元の乱)。
この事件には謎が多く、当時から貞時が宗方に命じて、対立する北条氏庶流の重鎮である時村を討ったのではないかとの噂が流れ、当然無実の時村を討ったことに非難の声が上がったという。貞時としては従弟であり腹心の部下でもある宗方を討たざるをえず、以後、政治に興味を失った貞時は酒宴にふけり、精彩を欠いていくこととなった。