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北条宗方

ほうじょうむねかた

得宗・北条貞時に仕える鎌倉幕府要人。嘉元の乱を起こしたことで、貞時の命により討ち取られる。
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概要

生没年 弘安元年(1278年)~嘉元3年5月4日(1305年5月27日)
 鎌倉幕府第8代執権北条時宗の異母弟・宗頼の次男。兄・兼時も父の跡を継いで長門探題から六波羅探題南方に就任、の来寇にあたった。父・宗頼が早世したことにより、後に第10代執権となる従兄・師時(時宗の実弟・宗政の長男)とともに時宗の猶子(相続権のない養子)となる。

六波羅探題北方となるまで

 弘安4年8月9日(1282年9月23日)、伯父・宗政が死去。宗方も早くに父を亡くしたことから、従兄・師時とともに伯父・時宗の猶子となり養育される。(次期得宗北条貞時には兄弟がおらず、北条氏嫡流に近い同母弟・宗政の子・師時、異母弟・宗頼の子・兼時・宗方兄弟を貞時の与力とする意図があったらしい)
 弘安7年(1284年)4月、時宗が34歳で死去、嫡男・貞時が14歳で執権職を継ぐ。
 同年、兄・兼時が北条氏庶流の重鎮・北条時村に代わって六波羅探題南方に就任、正応6年(1293年)から北方、次いで鎮西探題を歴任後、鎌倉において評定衆に就任したが、永仁3年(1295年)9月、鎌倉において死去した。

 永仁5年(1297年)6月、20歳で六波羅探題北方に就任、7月には連署大仏宣時の嫡男・宗宣が南方に就任、なお、本来であれば家格でも上位であり、北方でもある宗方が上席である執権探題となるが、政治実務経験に勝る39歳の宗宣が執権探題とされ、京の治安維持、朝廷との折衝、いつあるともわからない元軍襲来の脅威への備え、「永仁の徳政令」の公布にあたることとなった。

寛元の乱

 正安3年(1301年)、六波羅探題北方に辞して鎌倉に帰り、引付頭人から越訴頭人に就任、なお、同年8月には執権・北条貞時が、10月には連署・大仏宣時が職を辞し出家、執権には従兄・北条師時が、連署には北条時村が就くこととなった。
 乾元元年(1302年)、六波羅探題南方を務めていた大仏宗宣が鎌倉に帰り、越訴頭人に就任。

 寛元2年(1304年)12月、「平禅門の乱」(正応6年(1293年)に内管領・平頼綱が執権・北条貞時に滅ばされた事件)以降、空席となっていた内管領に就任。

 寛元3年(1305年)4月23日、連署・北条時村を時村邸に襲って討ち取るが、5月2日には時村邸を襲った配下の者が処刑され、4日、貞時の命を受けた大仏宗宣・宇都宮貞綱が追手を差し向けるなか、執権・北条師時邸に出頭したところを討たれた(嘉元の乱)。
 この事件には謎が多く、当時から得宗・北条貞時が内管領・北条宗方に命じて、対立する北条氏庶流の重鎮・北条時村を討ったのではないかとの噂が流れ、当然、無実の時村を討ったことに非難の声が上がったという。貞時としては従弟であり腹心の部下でもある宗方を討たざるをえず、以後、政治に興味を失った貞時は酒宴にふけり、精彩を欠いていくこととなった。

関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 得宗 北条氏 六波羅探題 北条貞時

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