概要
生没:正元元年(1259年) - 正和元年5月29日(1312年7月16日)
別名:五郎(通称)、順昭(法名)
官位:従四位下、陸奥守
北条氏の庶家のうち、北条朝直(北条時房四男)を祖とする大仏流の3代目当主。引付衆、寄合衆、六波羅探題南方など鎌倉幕府の要職を勤め上げ、後に第10代執権・北条師時の治世下で嘉元の乱が起こると、その事後処理での功を認められ連署、そして師時の後任として第11代執権の座に就いた。子に自身と同じく六波羅探題南方、連署を歴任した維貞らがいる。
北条一族の中での大仏流の扱いについては、本家(得宗家)とも婚姻関係にあり、代々幕府の要職についていた事から優遇されていたとする見方が一般的である一方、当主が幕府将軍より偏諱を受ける立場にあった得宗家や赤橋流に対し、金沢流と同様に得宗家当主を烏帽子親とする立場にあった事から一段低い家格と位置づけられていた、という指摘も存在する。
後述する嘉元の乱や、それに繋がる第9代執権・北条貞時との対立も、こうした一族内での歪ともいえる扱いに起因しているのではないかと見る向きもある。
生涯
前半生
引付衆、評定衆、第8代連署を歴任した大仏宣時(2代目当主)を父に持ち、烏帽子親となった鎌倉幕府第8代執権・北条時宗から時宗の「宗」の字を賜ったとされている。
弘安9年(1286年)6月、28歳で引付衆に就任。翌年には父・宣時が連署に就任し、同年10月には自身も評定衆に異動。以降も越訴頭人、小侍奉行、執奏、四番引付頭人、寄合衆・京下奉行と、幕府の要職を歴任する。
永仁5年(1297年)6月、3月に制定された「永仁の徳政令」の公布による混乱への対処を目的として、六波羅探題南方に就任、乾元元年(1302年)まで同職を務めた。
宗宣の六波羅探題南方就任と併せて、同北方には北条宗方(北条宗頼の次男)が就任しており、本来であれば北方に就任した宗方が上席とされるところ、幕府役職を歴任し実務経験豊富な宗宣が、六波羅のトップたる執権探題となったとされている。
嘉元の乱
六波羅探題辞任後、鎌倉へ戻った乾元元年2月には一番引付頭人に就任、翌年には越訴頭人に異動。この間、幕府執権は北条貞時から師時に交代していたが、幕政の実権は引き続き貞時の握るところであり、執権在任時より彼が推し進めていた得宗専制の強化に対し、宗宣も対立的な姿勢にあった可能性が指摘されている。
そんな中、嘉元3年(1305年)4月に連署であった北条時村が、当時内管領を務めていた北条宗方の手勢に討たれるという事件が起こる。この一件については昨今、一族の重鎮であった時村を排し、北条一族の庶家の力を削いで得宗家へのさらなる権力集中を企図した、貞時の意向が裏にあったのではないかという見解が有力視されている。
しかし、無実の時村を討った事への庶家からの反発は予想以上に強かったようで、事件後の5月2日には時村誅殺を実行した12人のうち11人を処刑、さらに同4日には貞時の命を受け、宗宣と宇都宮貞綱が宗方とその郎党の誅伐に当たった。この一連の事後処理は、庶家からの責任追及を回避するための、貞時の苦肉の策であった。
その一方で宗宣にとってこの一件、そして腹心を失った貞時が政務への意欲を失った事は、必然的に自身の躍進に繋がるものとなり、同年7月には先の事後処理における戦功により、時村亡き後空席となっていた連署に就任。そして応長元年(1311年)には執権・北条師時の死去に伴い第11代執権へと昇格。大仏流から執権職を輩出したのはこれが初めての事である。
・・・と記すと、宗宣や大仏流による得宗家への巻き返しが成功したかのように見えるが、実際のところ宗宣の執権就任の時点で既に幕政の実権は、内管領である長崎円喜や得宗家外戚の安達時顕、それに彼らが主導する寄合衆の握るところであり、執権とはいえ宗宣が主体的に政務を執れる余地はなかったのである。
結局、執権就任よりわずか半年あまり後の正和元年(1312年)5月に病を得て出家し、同年6月12日に死去。享年54。後任の執権には連署であった北条煕時(北条時村の孫)が就いた。