生没:弘安2年(1279年) - 正和4年7月18日(1315年8月18日)
別名:貞泰(初名)、道常(法名)
官位:正五位下、相模守
生涯
第7代執権・北条政村を祖とする政村流の1人。祖父に連署や六波羅探題北方などを務めた北条時村、父にその嫡男の為時をそれぞれ持つ。
嘉元3年(1305年)、長門探題に着任したのと前後して、鎌倉では北条一族内部で騒乱が発生。その際に祖父・時村は得宗家当主・北条貞時の命と称して討たれ、その際に熙時も命を狙われたとされる。この事件は結局時村への誅伐は誤りとされ、実行者であった北条宗方らにも処断が下される形で一応の落着を見ている。
延慶2年(1309年)、鎌倉へと戻った熙時は引付衆の筆頭である1番頭人になり、程なく金沢貞顕と共に寄合衆の一員に加えられ、幕政を主導していく事となる。そして応長元年(1311年)、大仏宗宣の執権就任に伴い連署となり、翌正和元年(1312年)に宗宣が病を得て執権職を辞すると、その後任として第12代執権に就任する。
もっとも、この当時の幕政は内管領・長崎円喜らを始めとする寄合衆が実権を掌握しており、熙時に求められたのはあくまで得宗家当主・北条高時の成長までの繋ぎという役割に過ぎなかった。また熙時の執権在任中に連署が置かれる事はなく、後任として金沢貞顕が連署に就任したのは、次期執権の普恩寺基時が就任してからの事であった。
就任から3年余りの間執権を務めた後、正和4年(1315年)7月11日に病を得て執権職を退き出家、それから1週間後の7月18日に死去した。享年37。