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北条長時

ほうじょうながとき

北条長時とは、鎌倉期の武将・政治家。鎌倉幕府第6代執権を務めた他、北条氏の有力庶家の一つである赤橋流の祖としても知られる。(1230年-1264年)
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概要編集

生没:寛喜2年2月27日(1230年4月11日) - 文永元年8月21日(1264年9月12日)

別名:陸奥次郎、専阿(法名)

官位:従五位上、左近衛将監、武蔵守


極楽寺流北条氏の祖で、六波羅探題北方や連署を歴任した北条重時の嫡男に当たる。弟に時茂(六波羅探題北方、常磐流北条氏初代、足利貞氏の外祖父)、義政(連署、塩田流北条氏初代)、業時(連署、普恩寺流初代)らがいる。8代執権北条時宗の母、葛西殿は同母妹。

上記の通り、重時の息子らはいずれも北条氏の宗家(得宗家)を支える有力庶家の祖となっているが、長時もその例に漏れず赤橋流(※)の祖として位置づけられている。赤橋流は極楽寺流の嫡流として、かつ得宗家に次ぐ家格として北条一門の中でも重んじられ、長時の曾孫に当たる赤橋守時が幕府最後の執権となったのも含め、代々の当主が幕府の要職を歴任した。


生涯編集

北条重時と、彼の継室に当たる治部局(平基親の娘)との間に次男として生を受ける。寛喜2年(1230年)2月、北条時氏の後任として六波羅探題北方となった父・重時とともに、生後間もない長時も上洛し、京都にて幼少期を過ごす。嘉禎元年(1235年)には、異母兄の為時が疱瘡に罹患し後遺症も残ったため、為時に代わって長時が重時の嫡男と定められた。

その後長時は鎌倉へと戻っていたようで、宝治元年(1247年)6月に発生した宝治合戦においては、六波羅探題として依然在京の身であった父へと鎌倉の情勢を伝えていた事が指摘されている。その宝治合戦の終息後、5代執権で長時の義弟でもあった北条時頼を補佐すべく、父・重時が十数年ぶりに鎌倉へと帰還。長時はその後任として、父と入れ替わりに上洛し7月に六波羅探題北方に就任した。

六波羅探題在任中には、宗尊親王の幕府将軍への擁立に関わり、親王の鎌倉下向に際しても供奉を担当した。その後父・重時の引退を受けて鎌倉へ再度戻った長時は、評定衆に就任し幕政運営に参加するようになる(後任の六波羅探題北方には同母弟の時茂が就任)。


ところがそれから間もない建長8年(1256年)11月、長時の元に突如として第6代執権の職が転がり込んでくる事となる。前執権・北条時頼が病に倒れた事により、彼の意向で譲られたものであった。またこの時、武蔵国務や侍所別当などの役職も、時頼より併せて引き継ぐ事となった。

執権とはいえ、長時に求められていたのはあくまで眼代、即ち時頼の嫡男である正寿丸(後の北条時宗)成長までの中継ぎであり、幕政の実権も引き続き時頼が掌握したままであった。とはいえ、長時自身にもそこまでの権力欲はなかったようで、執権就任後は忠実に事務処理を遂行し、時頼らの「信頼」に応える格好となった。

しかし文応元年(1260年)の末頃より長時もまた病がちになり、文永元年(1264年)7月には執権職を辞して出家し、それから1ヶ月半後の8月21日に浄光明寺にて35歳で死去した。この時点で時頼も既にこの世の人ではなく(前年の12月に病没)、残された時宗もまだ若年であった事から、執権職は一門の長老格であった北条政村に引き継がれる事となる。


創作物における北条長時編集

大河ドラマ北条時宗編集

演:川崎麻世

時宗成長までの繋ぎでしかない存在であるのは史実と同様で、劇中でも時頼から執権就任に際し、「時宗が成長したあかつきには執権職をお返し願いたい」と言われている。

しかし、あくまで繋ぎという立場を自認してそれに徹した史実とは異なり、同作では幕府の重鎮達からの「器が小さい」との評や、傀儡の立場である事に対する民衆からの嘲笑に耐えかね(実際に、時頼・時宗父子らが諸国を旅していた間、鎌倉の町中でそのことを笑いものにしていた頭目を斬り殺した事もあった)、時の征夷大将軍・宗尊親王に接近し得宗家打倒の目論見に身を投じるようになる。

その一環として宗尊将軍の上洛を推し進め、供奉人として時輔を据えようとするなど、「最明寺殿の手は煩わせない」との言とは裏腹に時頼の意に反する行動に出たものの、それも時頼と評定の場に初めて出席した時宗によって阻止されるなど、その後も時頼に煮え湯を飲まされ続ける日々が続いた。


その時頼も第11話で毒を盛られた末に死去するが、死の間際に時宗に対し長時(と時輔)を殺害するよう遺言を残していた。時宗は2人の殺害を躊躇していたが、安達泰盛や北条政村ら幕府の重鎮達に詰め寄られ、止むを得ず長時殺害の遺言を明かしてしまう。それを聞いた泰盛は「自ら泥をかぶる」として、孤児であった八郎に長時の殺害を命じる。

長時もその遺言を偶然耳にしていた妹の梨子(泰盛の妻でもあった)から、身の安全のため執権職を降りるよう説得を受けていたが、長時はこれを一蹴し自邸の警備を固めていた。しかしその警備をあっさりと突破した八郎は長時の寝床に現れ、必死の抵抗もむなしく彼の手にかかり絞め殺されるという敢えない最期を遂げた。

公には「突然の卒中にて亡くなられた」という事にされたが、後に長時の弟である義政から兄の死の真相を尋ねられた際、時宗は義政やその場に居合わせた面々に対し「反北条勢力と手を結んでいたため、暗殺するよう自分が命じた」と明かしている。


関連タグ編集

鎌倉時代 鎌倉幕府 執権

北条重時 北条時頼 北条政村 北条時宗

足利尊氏 - 義理の曾孫に当たる

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