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北条長時

ほうじょうながとき

鎌倉幕府・第6代執権。(メイン画像左下から2番目)
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概要

生没年 寛喜2年(1230年)2月24日~文永元年(1264年)8月21日
 極楽寺流北条氏の祖・北条重時の次男。父・が鶴岡八幡宮近くの赤橋に屋敷を構えたことから「赤橋長時」とも称し赤橋流北条氏の祖となった。弟に長時の跡を継いで六波羅探題北方に就任した・時茂、第6代連署・義政、第7代連署・業時らがいる。彼らはそれぞれ常盤流・塩田流・普恩寺流の祖となっている。嫡男・義宗も時茂の死後、六波羅探題北方に任じられ、「二月騒動」において8代執権・北条時宗の異母兄・時輔を討ち取る活躍を見せている。なお、赤橋流北条氏は極楽寺流北条氏の嫡流となり、また得宗北条氏に次ぐ家格として重んじられ、曾孫の赤橋守時は幕府最後の執権となるなど代々要職を歴任した。

誕生前史

 承久3年(1221年)6月、承久の乱が終結し、初代六波羅探題に鎌倉より上洛した第2代執権・義時の長男・泰時が北方、義時の弟・時房が南方に就任。
 元仁元年(1224年)6月、2代執権・北条義時が死去し、京より泰時が鎌倉に帰り執権に就任、時房も連署に就任し、泰時を補佐する。なお、後任の六波羅探題北方には泰時の嫡男・時氏(第4代執権・経時、第5代執権・時頼の父)が、南方には時房の長男・時盛が就任する。
 嘉禄2年(1226年)、藤原(九条)頼経が第4代将軍に就任。

生涯

 寛喜2年(1230年)2月、六波羅探題北方を務めていた時氏が病に倒れて鎌倉に帰った。このため誕生後まもなく後任の北方となった父・重時とともに上洛。同年6月、時氏は死去する。
最初は庶子だったが、長兄・為時が疱瘡を患った後遺症のため支障をきたし廃嫡されたのち嫡男となった。
 仁治3年(1242年)5月、六波羅探題南方を務めていた時盛を解任、後任は文永元年(1264年)に北条時輔が就任するまで空席となる。同年6月、執権・泰時が死去し、泰時の孫・経時が19歳で執権に就任。
 寛元2年(1244年)、執権・経時は権力欲にとらわれ幕府上層部に不穏な動きを見せる九条頼経を将軍職から解任、5代将軍に頼経の子・頼嗣を次の将軍に据える強硬策をとる。
 寛元4年(1246年)閏4月、執権・経時が病に倒れ死去、跡を継いだ時頼に対し、頼経派かつ反得宗家の重鎮・名越光時(朝時の子、教時・時章の父)が得宗家打倒に動き鎮圧される事件が起き、光時は伊豆に配流され、鎌倉にとどまり、頼嗣を後見していた頼経を京へ追放する(宮騒動)。
 宝治元年(1247年)、安達景盛やその孫・安達泰盛の挑発に乗り頼経派の三浦泰村・光村兄弟が挙兵、北条氏との武力衝突の末に三浦氏は滅亡(宝治合戦)。合戦終了後、六波羅探題北方を務めていた重時を京より招いて連署とし、後任の北方に成人した長時を置く。
 建長4年(1252年)、九条頼嗣を将軍職から解いて京に返し、後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王を次の将軍に据える。(頼経・頼嗣父子は同年京において相次いで死去)
 康元元年(1256年)、弟・時茂が六波羅探題北方に就任、京から鎌倉に戻り評定衆に加えられ、時頼が病を得たことで出家、時頼の嫡男・時宗が成長するまでのつなぎとして執権に就任。(しかしながら、時頼の病が癒えたことにより、実権はその後も時頼の手にあった)
 弘長3年(1263年)11月22日、北条時頼死去。
 文永元年(1264年)7月、病を得て執権職を辞任し出家。後任の執権には一門の長老・北条政村が就任し、時頼の嫡男・時宗が連署に就任する。翌8月死去、享年37歳。

創作物における北条長時

大河ドラマ北条時宗

彼を演じたのは川崎麻世。実質的には時頼の傀儡状態の執権であり、時頼の嫡男・時宗が得宗家の跡取りとして成長するまでの繋ぎでしかない存在(時頼にも「時宗が成長したあかつきには執権職をお返し願いたい」と就任時に言われている)。
また、幕府の重鎮達からも「器が小さい」と評されており、時頼が幼い時宗と安達泰盛を連れて旅に出ていたちょうどそのころに鎌倉の町中でそのことを笑いものにしていた頭目を斬り殺している。
その後も時頼に煮え湯を飲まされ続け、時の征夷大将軍・宗尊親王に接近し反得宗を画策。執権として「最明寺殿の手は煩わせない」として宗尊将軍の上洛を推し進め、その供奉人として時輔を据えようとする。が、それも時頼と評定の場に初めて出席した時宗によって阻止されてしまう。

その時頼も第11話で毒を盛られて死去。時頼は死の間際、時宗に長時と時輔を殺害するよう命じた。時宗本人は2人を殺害することを躊躇していたが、政村ら幕府の重鎮達に詰め寄られて『誰かを殺すよう遺言していた』ことを漏らしてしまう。時宗は止むを得ず、長時殺害の遺言を明かす。
それを聞いた泰盛は「自ら泥をかぶる」として長時の殺害を孤児の暗殺者・八郎を命じる。長時は館の警備を固めるも、八郎はあっさりと警備を突破し長時の寝床に現れる。八郎は素手で長時に襲い掛かり、その首を締め上げる。長時の必死の抵抗もむなしく、彼はそのまま息絶えた。長時暗殺の報を聞いた時宗は胸騒ぎが収まらない中で馬を走らせ、時輔のところへ向かう。しかし幕府の重鎮達を差し置いて真っ先に時輔へ報告してしまったがために、時輔は時頼の最後の遺言を知ることになる。なお、長時の死は「突然の卒中にて亡くなられた」ということにされた。

ちなみに泰盛の妻は彼の妹だが、この暗殺劇に夫が関わっていることを知っている。

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