北条義政
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ほうじょうよしまさ
鎌倉幕府・第6代連署。第8代執権・北条時宗を補佐するが、突如、出家遁世し、政界から引退した。
生没年 仁治3年(1242年)~弘安4年(1281年)11月27日
鎌倉幕府第2代連署・北条重時の四男として生まれる。信濃塩田荘(現長野県上田市)に居を構えたことから塩田義政ともいう。兄弟に6代執権・長時、六波羅探題北方となる時茂、7代連署・業時らがいる(本来であれば、義政は五男であるが、1歳年上の業時が母の身分の低さから五男とされ、義政は四男とされている)。
義政の栄達
文永2年(1265年)に24歳で引付衆となり、文永4年(1267年)には評定衆に加えられる。
文永6年(1269年)、裁判の指揮を執る重職である三番引付頭人に就任。
文永10年(1273年)5月27日、連署を務めていた北条政村が死去し、後任の連署に就任。なお、一番引付頭人には北条実時、二番頭人には政村の嫡男・時村、三番頭人には時宗の同母弟・宗政が就任し、四番頭人には北条時広、五番頭人は安達泰盛が留任する。
突然の出家遁世
建治元年(1275年)10月ころから出仕を怠るようになる。一旦は復職するが、建治3年(1277年)4月4日に出家、5月28日に信濃の善光寺に詣でた後、所領の塩田荘に篭居する。
当初慰留に努めていた執権・時宗もついにあきらめて、義政の連署と武蔵守を解任、時宗は弘安6年(1283年)に普恩寺業時を連署に任じるまで空席とした。
弘安4年(1281年)11月27日、40歳で死去。なお子の国時・時治、孫の俊時も引付頭人や評定衆、国時は諏訪社の頭役を務めていることから、塩田流北条氏は一門の中でも一定の勢力を保ちつづけたといわれている。
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