概要
生没年 仁治2年(1241年)~弘安10年(1287年)6月24日
兄弟に第6代執権・北条長時、六波羅探題南方を務めた北条時茂、第6代連署・北条義政(仁治3年(1242年)~弘安4年(1281年))らがいる。なお、時茂とは同年齢ではあるが、母の身分序列により時茂を三男、1年年少の義政を四男としており、業時は五男とされている。
生涯
文永2年(1265年)、兄・義政ともに引付衆に就任、以後、義政は評定衆、三番引付頭人となり、文永10年(1273年)には連署に任じられるなど8代執権・北条時宗政権において順調に出世していったが、建治3年(1277年)に突如出家遁世し、信濃国塩田荘に籠もってしまう。業時は兄の遁世に伴い評定衆、三番引付頭人に任じられることとなった。
同年8月、同母弟で当時一番引付頭人を務めていた宗政が29歳で死去し、後任の一番引付頭人に就任する。
弘安6年(1283年)4月に連署に就任。時宗の嫡男・貞時の母の兄である安達泰盛や内管領・平頼綱らとともに時宗を補佐する。
弘安7年(1284年)4月20日、時宗が34歳で死去。貞時が14歳で跡を継ぎ、引き続き安達泰盛、平頼綱と共に幼い執権を支えることとなった。
同年5月、安達泰盛が主導する「弘安徳政」が始まるが、このころより泰盛と平頼綱の対立が先鋭化した。弘安8年(1285年)11月、頼綱は泰盛ら安達一族を滅ぼすと同時に、泰盛派の有力御家人を殺害する強硬手段をとった(霜月騒動)。
これ以降の幕政は平頼綱の主導するところとなり、その間業時は以後2年あまり連署を務め、弘安10年(1287年)6月26日、47歳で死去した。