生没年 弘安8(1285)年~嘉暦2(1327)年
官位 従四位下・修理大夫
生涯
第11代執権を務めた北条/大仏宗宣の子。
嘉元2(1304)年に引付衆に任ぜられ、その後も評定衆や六波羅探題南方などの要職を務める。
正中3(1326)年に連署に任じられるも、ほどなく病を得て嘉暦2(1327)年、連署在職中のまま死去。
死後の大仏流
維貞の死後は嫡男の高宣が継いだが翌年に死去。その後は次男の家時が継いだが、6年後の正慶2/元弘3(1333)年、鎌倉幕府滅亡の際に鎌倉で自害。3男・貞宗、4男・高直は河内千早城攻めに参加していたものの、幕府滅亡の報を聞き降伏。建武元(1334)年に京で処刑され、ここに大仏流北条氏は滅亡した。