概要
千早城は鎌倉時代末期(南北朝時代)、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村に存在した山城。急ごしらえの小さな砦であることから、後世の城郭にあるような石垣はない。
大和(奈良県)と河内(大阪府)の境にある金剛山に建てられた。急峻な狭い尾根にあり、所謂天然の要害と呼べる地にあった。
後醍醐天皇の意思に呼応した小豪族・楠木正成がわずか千人余りの兵を率いて30万とも言われる鎌倉幕府の大軍を退けた「千早城の戦い」の舞台である。
正成はこの城に籠り、押し寄せる幕府軍に木材や岩石、熱湯や煮えたぎった油など、ありとあらゆるものを投げ落として抵抗、ついには幕府に不満を持つ足利尊氏や新田義貞、赤松円心などの有力武士も蜂起して、鎌倉幕府を打倒するにいたった。
その後も楠木氏の本拠となっていたが、鎌倉幕府滅亡から60年後の1392(明徳3)年、南朝に属した正成の孫・正勝の時に北朝軍に攻め落とされ、歴史上から姿を消した。