日本の北朝
建武三年(1336年)に光厳上皇を治天の君として光明天皇が京都で即位し、直後に後醍醐天皇が吉野で自らがなお在位中と宣言してから、明徳三年(1392年)、後小松天皇が南朝の三種の神器を回収して南朝の後亀山天皇の譲位を受ける形式で南北朝を統一するまで。ただし、後醍醐天皇の隠岐配流の間に鎌倉幕府に擁立された光厳天皇も、後醍醐天皇が在位の事実を認めなかった為に北朝の初代に数えることが多い。光厳上皇、光明天皇を始め、歴代の天皇は全て持明院統の出身である。
足利尊氏が湊川の戦いで建武政権を滅ぼして京都を軍事占領したことで光明天皇が即位し、軍事の実権は武家の足利氏が世襲する室町幕府が握っていたことから、南朝の「宮方」に対して「武家方」とも呼ばれる。
しかし実際には、公家の多くは北朝に従っていたらしい。後醍醐天皇の一族である大覚寺統の皇族たちすら、後醍醐天皇自身の皇子以外は常盤井宮・五辻宮等京都に残留している。北朝の日常政務は幕府とは別に、治天の君・光厳上皇の院政、関白以下の公卿による院評定等伝統の作法に従って独自に行われていた(新田一郎『太平記の時代』)。新田によれば、公家社会にとっては京都に政務と公事を復興できる治天や天皇が存在すれば、皇統はどちらでもよかったのである。室町時代の権大納言万里小路時房は、自身の日記の中で南朝の後胤小倉宮の死去について「(後醍醐天皇が決起した)元弘・建武以来心休まることなき苦難と騒乱の時代であったが、今や皇統は北朝に統合された。これぞ天の理、神慮と言うべし」と語った(『大日本古記録 建内記』嘉吉三年五月九日)。小倉宮聖承とは南朝最後の後亀山天皇の子孫であり、南朝の復活を狙って伊勢の北畠氏等を率いて叛乱を繰り返した人物である。時房の主張は後醍醐天皇には納得がいかない見解であろうが、公家社会にとっては南北朝騒乱はただの皇位争いにしか見えなかったようだ。後醍醐天皇は大覚寺統、しかも大覚寺統の指導者であった後宇多法皇の遺言状によれば実兄・後二条天皇から邦良親王への皇位継承の中継ぎとしてたてられた天皇であった。このため、自らが嫡流と自認する持明院統の公家たちはもちろん、大覚寺統の公家たちの多くからも正当な皇位継承者とは認められていなかったのである。
さて北朝には苦難の歴史が待っていた。その始まりは、朝廷を支えるはずの足利将軍家の内紛、観応の擾乱である。足利尊氏は、足利直義が率いる反乱軍の強大化に悩まされていた。直義の支えは南朝から正統な武家の棟梁と認められていることである。かくして尊氏は、観応2年(1351年)に南朝へ降伏して直義の正統性を奪うという禁断の賭けに出た。正平一統である。当然ながら見捨てられた北朝の朝廷は驚天動地の大騒ぎとなる。尊氏は孤立した直義を捕らえることに成功するが、代償が大きすぎた。降伏の条件履行の為、南朝は三種の神器を奪い、崇光天皇や皇太子を廃し、関白二条良基らも解任されて北朝は崩壊した。さらには戦況を見て京都に攻め寄せて足利義詮率いる守備軍を打ち破り、北朝の治天や皇族をほぼ全員連れ去った。こうして正平一統は破れて尊氏も南朝への降伏を取り消す。
義詮は兵を集めて南朝軍から京都を奪還するが、肝心の天皇を即位させるための治天の君や神器といった仕組みが何も残っていなかった。二条良基や佐々木道誉らの奔走で後光厳天皇が即位して何とか北朝は復活するも、今度は打ち続く戦乱による財政難が待っていた。北朝公家たちの所領は、次々と武士たちに横領されて、暮らしていくのも苦しくなっていたのである。こうなると朝廷が儀式を遂行しようにも、肝心の公家たちが集まらない。生きていくのに精いっぱいなのに儀式どころではないのだ。心ある公家たちが朝廷の衰退を嘆く中で時代は流れていき、足利義満による朝廷の復興を待つことになる。
足利義満は朝廷の儀式と伝統への関心が強く、莫大な寄付をもってその復興を支援した。さらに南北朝統一によって、北朝は唯一の正統性も手にすることになる。こうして室町時代の、さらに後世につながる朝廷の基盤がここに誕生していくことになった。
中国の北朝
中国では
五胡十六国)の後に北魏が439年に華北を統一してから589年に隋が中国を統一するまでの間に華北に興亡した政権。北魏が東魏と西魏に分裂してからは、東西に王朝が並立して興亡し、西から建国した北周が再度華北を統一、続く隋が中国を統一する。
北魏(拓跋氏→元氏)