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後小松天皇

ごこまつてんのう

第100代天皇、南北朝の合一による最初の天皇。北朝第5代・後円融天皇の第一皇子。
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概要編集

生没年 永和3年(1377年)~永享5年(1433年)

 北朝・第5代・後円融天皇の第一皇子として生誕、母は内大臣を務めた日野公忠の娘・厳子(通陽門院)。名を幹仁といい、日野資教邸で養育された。

 永徳2年/弘和2年(1382年)、ときの最高権力者である左大臣室町幕府・第3代将軍足利義満の邸宅・室町殿に移り、父・後円融帝からの譲位を受けてわずか6歳で即位した。

 明徳3年/元中9年(1392年)、南朝にあった第99代・後亀山天皇から「三種の神器」を受け取り、持明院統と大覚寺統が皇位を交互に継承することを条件に南北朝の合一がなる(両統迭立)。

 応永元年(1394年)、義満は将軍職を嫡男・義持に譲り出家、「道義」と名乗るが、実権を握り続け、同年、太政大臣に任じられ位人臣を極める。

 応永4年(1397年)、義満は「仙洞御所」(上皇の御所)に似せた邸宅・「北山第」を造営する。

 応永8年(1401年)に遣わした使者の返礼として、翌応永9年(1402年)、義満はからの使者を「北山第」に迎えて「日本国王源義義」と記された国書を受け取り、「日本国王臣源」と記した国書を返し、勘合貿易の道を開いた。

 応永15年(1408年)、北山第に行幸、同年、権勢をほしいままにしていた義満が亡くなる。朝廷は義満の功績に尊号を贈ろうとと検討したが、すでに従一位という最高位に叙せられており、太政大臣も令制上での最高位であるため、贈るべき官位がない。そこで朝廷は義満が後小松天皇を養育したことを考慮して「太上法皇」を宣下することを決定した。(父・義満と不仲だった4代将軍・義持はこの申し出を辞退した)

 応永19年(1412年)、義満の意向により第一皇子・実仁親王に譲位(称光天皇)に譲位、東洞院殿において院政を開始する。

 正長元年(1428年)、称光天皇が崩御、上皇は伏見宮第3代・貞成親王(後崇光院)の第一皇子・彦仁王を猶子に迎えて即位させ、後花園天皇とする。

 永享5年(1433年)10月、崩御、深草北陵に葬られた。ちなみに諡号の「小松」は第58代・光孝天皇の別称(陵がある小松山から「小松帝」とも呼ばれた)から。


皇統編集

・實仁親王(第101代・称光天皇

・小川宮

・理永女王

  • 典侍:甘露寺経子 ー 甘露寺兼長の娘
  • 宮人:日野西資国の娘

余談編集

 有名な一休宗純は後小松天皇のご落胤であるといわれ、室町・戦国期の公卿の日記にも「一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世にこれを知る者無し」と記されており、信憑性は高いと考えられている。

 ちなみに、一休が晩年過ごした酬恩庵にある一休の墓には「後小松天皇皇子 宗純王墓」と記されており、宮内庁が陵墓として管理している。


関連タグ編集

南北朝時代 室町時代 室町幕府 足利義満 一休宗純

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