概要
父・義満との確執
至徳3年/元中3年(1386年)2月12日、3代将軍足利義満]]と藤原慶子の長男として生まれる。
「南北朝合一」が成った翌々年の応永元年(1394年)12月17日、出家した義満より将軍職を譲られたが義満の傀儡でありまだ9歳の義持に実権はなく足利家の家督は譲られていなかった。義満は太政大臣に任じられたばかりか「法皇受戒の儀式」になぞらえたものを行うなど、このころより法皇就位の野心を表に出すようになった。
応永4年(1397年)、義持は室町第を譲られ義満は仙洞御所(上皇の御所)になぞらえた自身の別荘である北山第(その一部が今日の金閣寺)で政務を取った。義満は北山第に明からの使節を迎えて「日明貿易」を再開させており「日本国王源道義」と記した国書を明に送っている。
義持は義満の野心や施策について懐疑的どころか反感を抱くようになっていたが、義満が弟・義嗣を偏愛したことにより父子の確執がさらに顕著になった。応永15年(1408年)、後小松天皇の北山第行幸が挙行され、義満は子の義嗣を天皇の御前に座らせ、天皇から盃を賜るよう計らったことにより、人々は「義嗣が足利家の家督を継ぐのではないか」と噂したという。しかし義満は同年5月に急死、義持は足利家の家督も継いた。
親政開始後
父・義満の在世中から義持を支持していた老臣・斯波義将を補佐役に据え親政を開始した。
朝廷は義満に法皇(上皇)の尊号を与えようとしたが義持は拒否し、北山第は放棄し義満が行っていた祈祷や仏事を縮小が行い、自身は祖父・足利義詮が居住していた三条坊門邸を修築して移った。
応永17年(1410年)、義将が死去したことを機に斯波一族を中枢から外し新たに畠山満家を管領とし富樫満成らを側近に用いた。翌応永18年(1411年)、明との国交を断絶し日明貿易も中止した。これは義持が将軍就任当初から持っていた構想だったが義将が日明貿易に関しては積極的だったため行えなかった。同年には旧南朝勢力の飛騨国司・姉小路尹綱、楠木一族、伊勢国司・北畠満雅らが挙兵したがこれらを鎮圧した。
弟・足利義嗣処断、鎌倉公方・足利持氏との対立
応永23年(1416年)に前関東管領・上杉禅秀が鎌倉公方・足利持氏に謀反を起こした時は当時は静観していたが、義嗣が禅秀と連絡を取っていたことなどが明らかになったため義嗣を仁和寺に幽閉し持氏を支援。そして禅秀の乱が鎮まった翌年の応永25年(1418年)、満成に殺害を命じた。しかし今度は満成が周囲の反感を買うようになり義持の愛妾・林歌局と密通していた事などを告発されて失脚。その後、満成は討たれた。
禅秀の乱後、持氏は禅秀の娘婿である武田信満らを討つなどの勝手な振る舞いを行ったため、義持は激怒。義持は関東の反持氏勢力を支援し篠川公方・足利満直らに持氏討伐を呼びかけ自身も関東出兵の一歩手前まで行ったが和睦し取り止めになった。しかし、関東の混乱は収まらず全国に先駆けて戦国時代に突入することになる。
大御所時代~死後
38歳だった応永30年(1423年)、17歳の嫡男・義量に将軍職を譲り隠居・出家し道詮と号する。
義量は病弱でありながら大酒のみであった。義持は将軍職を譲るにあたって酒を慎むよう諭したが、義量の飲酒癖は治らず、2年後、義量はわずか19歳で死去してしまった。
やむなく義持は政務をとることになったが、跡取り息子が生まれるという八幡宮の占いを信じ、後継者を定めることはなかった。表向きは平穏だったものの称光天皇の継承問題や幕府内での政争など様々な問題が芽生え、応永34年(1427年)には父・義則死後家督を継いだ赤松満祐と播磨・備前・美作の守護職を巡っていざこざがあり満祐討伐の一歩手前までになった。持氏や満祐との対立は永享の乱や嘉吉の変、大名間の政争は応仁の乱を暗示させるものとなり政情不安の中、応永35年(1428年)に後継者を定めぬまま死去。享年43。
重臣たちは義持の弟4人のなかから籤で選ぶことを定め、義持の同母弟・青蓮院義円が選ばれ還俗し義宣と名乗り6代将軍に就任。義宣はのちに改名し足利義教となる。
室町将軍の中では最長の将軍在職28年であり義持は室町幕府の歴代将軍の中では比較的安定した政権を築き上げたとされる。
しかし内実は応永の外寇、北畠満雅や上杉禅秀の乱や異母弟義嗣の殺害、足利持氏や赤松満祐らとの対立、義量の夭折などいろいろあった。室町幕府は義教政権時代はその「万人恐怖」ぶりで「薄氷を踏む時節」状態と言われたが実は義持政権時代からその兆候が見えていたという。
余談
歴史の教科書等では父・義満や弟・義教と比べると地味な将軍という扱いになりがちであり肖像画の長いモミアゲがネタになる程度だった。
しかし、死因が浴室で尻の出来物をかきむしったことによる感染症であったことが義持のネタ要素として一部のマニアに大ウケしてからはこれを取り上げた動画も複数投稿されている。また、実質的な後継者である弟・義教が歴史の表舞台に出る契機となったエピソードとして義教関連で取り上げられることも多い。