家督相続まで
1381年、赤松円心の孫である赤松義則の長男として誕生。弟に祐尚、則友、義雅、則繁、竜門寺直操がいる。
戒名は「性具(しょうぐ)」。「仏性を具(そな)える」という当時としては普通の名前であるが……。
元服時は足利義満より偏諱の授与を受けて満祐と名乗った。父の代理として早くから政治の表舞台にあり、義満の子である第4目将軍・足利義持の代では1411年-1413年に侍所頭人を務めた。また翌年1414年からは父に次いで左京大夫に叙任され、守護職を代行した。
領地剥奪の危機
1427年、父・義則が死去すると家督を継ぐ。しかし義持は満祐の又従兄弟である赤松持貞に播磨を与えようとしたのである。これを聞いた満祐は激怒して播磨に帰還、更に一族を集めて挙兵しようと画策した。
義持は残る備前・美作両国も没収し、追討令を発令させるが守護大名達は反発。そして翌年、幕府家臣・畠山満家らが持貞を処分する事に決定。持貞は自害に追い込まれた。また満祐は諸大名の尽力もあって許されたのであった。
同年、足利義持が死去して義持の弟である義教が第6代将軍になると伊勢守護・北畠満雅の反乱が発生し、満祐は満雅の反乱鎮圧に参戦した。翌年播磨で一揆が起こるとこれを鎮圧。
また大和永享の乱では参戦せず、代わりに義雅を派遣するなど活躍した。しかし・・・。
義教との対立
義教とは当初良好な関係であり、宿老の1人として諮問に応じたり、邸宅訪問を受けたり、1438年に3度目の侍所頭人を任されるなど幕府内の長老格として活躍していた。
しかし次第に義教は有力大名を粛清し始めると、満祐の配下の3人が義教に謀殺。更に自身と義雅の領地が減俸され、その領地が持貞の甥である赤松貞村に与えられると言う風聞が起こる等、次第に対立の色を深める。
更に義教は有力守護大名(斯波・畠山。四職(土岐・京極・一色。赤松家も含む)。)に手を出し、果てには土岐・一色家の当主を謀殺して当主を変えるなど横暴を振るった。
満祐は自分が暗殺されるのでは無いかと不安を強め、次第に疑心暗鬼となっていった。1440年には侍所別当の職を罷免させられた事により幕府への出仕を停止した。
嘉吉の乱
1441年、満祐は結城合戦での勝利を祝う祝勝会を自宅で行う為に、義教を呼び寄せた(鴨の赤ちゃんが生まれたのを見せるのも理由にしたという)。満祐は義教を息子・教康と弟・則繁に命じて殺害したのである。
義教殺害後、満祐は教康と共に播磨に帰還した。義教の死によって幕府は大混乱に陥るが、管領細川持之は評定を開き足利千也茶丸を第7代目将軍として立て、更に山名持豊を但馬、山名教清を伯耆、細川持常、赤松貞村、赤松満政を摂津から進行させ、播磨、備前、美作へ討伐軍を派遣させた。
満祐はこれに応戦するが、海路から細川持親の軍が奇襲した事もあって敗北。最終的に城山城へ籠城するも敗れ、満祐は教康と則繁に逃がした後、自害した。享年60歳。
その後の赤松家
満祐の死によって赤松家は一時的に滅亡し、弟・義雅は幕府に降伏したが、許されず自害させられる。
息子・教康は北畠教具を頼るも幕府の反逆者になると恐れた教具は拒絶。教康は絶望して自害。則繁は様々な場所に逃亡するが、最終的に畠山家を頼って赤松家復活を図ろうとした事が幕府に発覚し処刑させられた。
義雅の子・時勝は23歳で死去。時勝の息子(満祐から見ると弟の孫)である赤松政則の代で、南朝の残党(後南朝)から神器を奪い返した功績で、赤松家は再び大名に返り咲いた。
余談
父親の義則ともども非常に背が低く、三尺入道と呼ばれていたという。このことから小人病だったと言われている(実際の小人病の例ではこれよりも背が低い例があるのでありえない身長ではない)。