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戦国時代初期の武将で第2代堀越公方。


装甲悪鬼村正』の方の同名キャラはこちらを参照。


プロフィール編集

生没年:文明年間(1470年〜1481年)〜1498年?

幼名:茶々丸


幼名しか残っておらず、元服したかどうかは不明であり通称や諱は不明。諱については江戸時代後期に高松藩で編纂された『歴朝要紀』では「政綱」とするが根拠がない。


概要編集

父・足利政知編集

政知は室町幕府第6代将軍足利義教の四男。異母兄に第7代将軍足利義勝、異母弟に第8代将軍足利義政と第10代将軍足利義稙の実父である足利義視がいる。幼少期から天龍寺の僧となり清久と称していたが、古河公方足利成氏の討伐のために還俗し弟・義政の偏諱を受け政知と名乗った。その後幕府公認の鎌倉公方に任じられ関東に下向するも成氏の勢力は強く鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称されその初代となった。


廃嫡・幽閉~堀越公方奪取編集

その政知の長男として生まれた茶々丸は、弟の清晃(後の第11代将軍・足利義澄)と潤童子の実母である継母・円満院の讒言もあり素行不良の廉で政知によって廃嫡・幽閉される。その前に茶々丸の廃嫡を反対した執事・犬懸上杉政憲(上杉禅秀の七男・教朝の子)が自害に追い込まれていた。その後、政知は成氏討伐を再開すべく義政にかけあって、次男・清晃を義政の猶子にし、三男・潤童子を堀越公方後継と定めた。茶々丸の冷遇振りは酷いものだったようで円満院からは特に憎まれ虐待されるなどしていたらしい。しかし、政知の死後脱走し潤童子と円満院を殺して堀越公方となる。


茶々丸は潤童子を推す堀越公方家臣団たちや政知や円満院のふるまいに対して反感を抱いていた伊豆の在地領主たちに支持されていた。また彼らは古河公方討伐再開にも反対しており背後には関東管領山内上杉顕定がいたとされる。茶々丸は政知時代の方針を完全に転換し生前の義政と政知の構想を根底から覆したが、顕定と結んだことで政知時代に親しかった駿河今川氏親や扇谷上杉定正とは対立関係になった。また1553年成立の斎藤道斎の『今川記』によると氏親の叔父で客将の伊勢盛時(北条早雲)は堀越公方からも所領を与えられていたとされているが、その所領は茶々丸により没収されたと思われる。


伊豆追放編集

茶々丸は足場を固めようとした矢先に讒言を真に受けて外山豊前などの重臣を誅殺するという愚行を犯してしまう。また旧政知近臣団と茶々丸を支持するグループとの対立も先鋭化、さらに頼みのはずの在地領主たちも山内上杉支持派と扇谷上杉支持派に別れてしまい求心力は低下していた。


1493年、京では潤童子の同母兄である清晃が明応の政変により細川政元日野富子に担ぎ出され還俗。名を義遐(よしとお、のち義高)と改名し、政変で追われた足利義材の後任の将軍に就任していた。


そして新将軍義澄の命を受け氏親や定正の支援も受けた盛時が伊豆に侵攻、家臣団や在地領主の中には盛時に内応する者が続出し堀越御所は陥落。茶々丸は堀越陥落後、韮山で自害したという説もあったが、実際は堀越陥落後も南伊豆へ逃れ顕定の支援を受けて抵抗した。しかし、1495年に南伊豆も陥落し伊豆から脱出した。


なお、盛時の伊豆攻めについては盛時の野望による征服という見方があったが、現在では義澄の命令説が有力である。


※参考書籍

黒田基樹『戦国史研究』71号「伊勢盛時と足利政知」

家永遵嗣『室町幕府将軍権力の研究』収録「堀越公方府滅亡の再検討」


伊豆脱出〜最後編集

伊豆脱出後は甲斐武田信縄を頼り伊豆奪回に向け抵抗を続けた。しかし、茶々丸を保護したことを口実に宗瑞は甲斐に度々攻め入り、信縄と父・信昌及び弟・油川信恵との対立もさらに激しくなり武田家は信縄の長男・武田信虎が甲斐を統一するまで一族間で抗争を続け、後北条氏との抗争は孫の武田信玄の代に今川を含めた三国同盟が結ばれるまで続いた。

『勝山記』によると茶々丸自身も信縄から兵を借りて(現在の)富士吉田から兵を率いて今川領の御厨地方(御殿場裾野方面)へ侵攻している。


一方、茶々丸の支援者の一人である顕定は大内義興大友義右朝倉貞景や父・上杉房定らとともに越中公方・足利義尹(義材)を支持して義尹の将軍再擁立を狙っていた。信縄もその一員だったが茶々丸も「敵の敵は味方」ということで義尹勢力の一員になっていたとされる。しかし、近江で義尹は六角高頼勢と戦って惨敗し周防の義興の元に逃走したことで顕定は義尹擁立を諦め義澄陣営に鞍替えし伊勢氏と和睦した。


その後茶々丸の運命は一気に暗転し1498年に最期を迎えた。最期については「明応の大地震」をきっかけに武田氏と駿河今川氏・伊勢氏の和睦の条件として武田氏から宗瑞に引き渡され伊豆まで連行され切腹させられたという説と甲斐から伊豆大島を経て伊豆最南端の深根城へ上陸し抗戦の末に討たれたという説がある。


フィクションによる足利茶々丸編集

小説編集

  • 箱根の坂

司馬遼太郎による北条早雲を主人公とする小説。短慮かつ粗暴で身の程知らずな野心家という救いようのない典型的なバカ殿として描かれている。ちなみに史実の政知は自然死であったがこちらでは政知をも茶々丸が殺した設定になっている。

マンガ編集

伊勢新九郎(北条早雲)が茶々丸を襲撃する場面で始まる。小鹿範満と共に「箱根の坂」と比べて扱いがかなり良くなっている。円満院とは互いに憎み合うことになり、政知死後茶々丸を支持する伊豆の地侍たちに担がれて蜂起した。


余談編集

2024年になり「新九郎、奔る!」で本格的に登場した(史実の)足利茶々丸だが現在、pixivではほとんど全て『装甲悪鬼村正』の方の足利茶々丸で占められている。元ネタと二次創作の関係ではあるが、今となっては史実の足利茶々丸で投稿する時は、戦国関係のタグを付けて棲み分けした方がよいだろう。


関連タグ編集

北条早雲 足利義澄 明応の政変


足利義明…小弓公方。茶々丸同様、実力で公方に就任した野心家で父や兄弟との仲の悪さ、伊勢(北条)氏に滅ぼされたなど共通点が多い。

冒頓単于…父に疎まれていたこと。継母と異母弟を自らの手で殺し当主になった点が同じ。

大友宗麟…父・大友義鑑が死亡し自身が当主になった事件である「二階崩れの変」において父・継母・異母弟殺害犯の黒幕説もある。

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