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関東管領

かんとうかんれい

南北朝時代から室町時代、戦国時代にかけて実在した室町幕府の役職。
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概要編集

南北朝時代から室町時代戦国時代末期にかけて実在した室町幕府の役職である。


解説編集

室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏は関東以北の支配を固めるため、当初は鎌倉に三男(嫡男)・義詮を置き、関東執事に斯波家長が就任した。

当時、京の都を拠点とする北朝方と吉野に拠点を置き虎視眈々と京へと攻め寄せようと機会をうかがう南朝方が対立しているだけなく、北条時行などの鎌倉幕府残党も北朝方と対立する構図が出来上がっていた。

家長が北畠顕家との戦いで討死してからは上杉憲顕が後任となり高重茂(師直師泰の弟)も務めたことがある。


のち北朝内部の実権をめぐって尊氏の弟・直義直冬(尊氏の庶次子、直義の養子)と高師直・師泰兄弟の対立が深刻化、高兄弟側に尊氏もついたことで尊氏・直義兄弟の関係も悪化し観応の擾乱に突入していくことになる。


貞和5年/正平4年(1349年)、両派の対立が先鋭化する最中、尊氏は政務に専念させるため義詮を鎌倉より呼び寄せると同時に四男・基氏を派遣して関東公方(鎌倉公方)とし、憲顕と高師冬(師直の猶子)が幼い基氏の補佐役となった。


しかしこの二人は極めて仲が悪く観応元年/正平5年(1350年)、直義派の憲顕が師直派の師冬を攻撃して自刃に追い込んだ。観応の擾乱終結後、直義派だった憲顕は免職され越後に隠棲し畠山国清とが関東執事職に就いた。国清は新田義興を謀殺したりするなど辣腕を奮ったが失脚し反乱を起こして斬られた。基氏は国清の後任として憲顕の復帰を要請。憲顕は再度関東執事となり基氏の子の氏満の代まで手腕を振るった。関東執事が関東管領と呼ばれるようになったのはこの頃とされる。その後も関東管領職は有力御家人・上杉氏が世襲継承することとなり、関東の重職として勢力を保ち続けた。


関東管領職は山内(やまのうち)上杉氏と犬懸(いぬかけ)上杉氏が交互に任じられていたが関東管領職を巡って両氏は対立、その果てに犬懸上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反乱を起こして敗北し犬懸上杉氏は滅亡し山内上杉氏の世襲となった。その後、関東管領は鎌倉(古河)公方と対立するようになり永享の乱と享徳の乱が発生し、享徳の乱終結後は山内上杉氏と扇谷(おうぎやがつ)上杉氏の勢力争いである長享の乱が発生した。その後、山内上杉顕定が越後長森原で越後守護代の長尾為景と戦って討死したことで顕実と憲房による家督争いが勃発し古河公方家の足利政氏高基義明の三つ巴の争いも絡んだ永正の乱が勃発した。憲房の死後も憲寛と憲政が争いこれに古河公方家の高基と晴氏に加え小弓公方を称した義明と扇谷上杉家も介入した。二度の家督争いで弱体化し、戦国時代も中期になると小田原北条氏甲斐武田氏などの有力戦国大名に圧迫され北条氏との河越夜戦での大敗で権威は失墜。上杉氏最後の関東管領・上杉憲政は北条氏の猛攻に耐えかね居城の上野平井城を放棄。為景の子の景虎に身を寄せ、後継者として景虎に関東管領職を譲り景虎は上杉政虎(謙信)と改名した。その後、室町幕府の滅亡と謙信の死、その後の御館の乱で憲政が謙信の養子の上杉景勝に殺害されたことにより関東管領の歴史は幕を閉じた。


関連タグ編集

南北朝時代(日本) 室町時代 戦国時代 室町幕府


足利尾張守家→斯波家編集

斯波家長(逃げ上手の若君)

高家編集

高師冬(逃げ上手の若君)

山内上杉家編集

上杉憲顕(逃げ上手の若君)

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