1350年から1352年にかけて発生した将軍家である足利家のお家騒動をきっかけに行われた戦乱。
将軍・足利尊氏の執事・高師直と尊氏の弟・足利直義の関係が悪化し、それによる内乱が発生。最終的には尊氏も巻き込まれ全国に争いが飛び火し3年にも及ぶ長い内乱となってしまった。
経過
建武の新政の失敗を受け、後醍醐天皇は京の都を追われ、尊氏らによって光明天皇が擁立され、後醍醐天皇方の南朝と光明天皇方の北朝の、ふたつの朝廷による騒乱が始まる。1338年、尊氏は朝廷(北朝)から征夷大将軍に任命され再び幕府による政権が始まった。
尊氏が開いた幕府では、すべての政務を天皇に一任した結果失敗した建武の新政の反省を受け、将軍・尊氏とその弟の直義の二頭政治を始めた。
尊氏は奉公を要求し御恩を供与する権限をもつ「軍事の長」、直義は行政として統治者の権限をもつ「政事の長」と呼ばれ、兄弟二人で時には互いに補い合いつつ政治を進めていた。
しかし尊氏の執事・高師直と直義との関係が徐々に悪化していった。師直や軍事部隊は戦のどさくさに紛れて半済令を無視した形で火事場泥棒的に兵糧を徴収していくなど多くの問題を起こし、彼らに土地や畑を荒らされた人々が次々と直義ら内政担当に訴え出るようになった。また直義の政治は復古的な性格が強く旧来の権威を否定し新しい政治を望む武士たちの中には不満を抱く者もおり険悪なムードが漂い始めていた。
師直・直義間の膠着状態は、1348年に発生した四条畷の戦い以降激化していった。この戦いは師直と南朝側の楠木正行(正成の長男)との戦いで、師直側が勝利。南朝のエースであった正行を倒した師直の名声は一気に高まり、この機に乗じて師直は幕府から直義派の追放を企て、人事を巡って直義と激しく対立した。
1349年5月、直義は師直の暗殺を企てるも失敗。同年8月、逆に師直に逆襲され直義は尊氏邸に避難することとなった。
両者のにらみ合いは尊氏邸にてしばらく続いたが、尊氏が間に入ったことで「直義の腹心である畠山直宗と上杉重能を流罪」「直義を人事から降ろし、後任に尊氏の嫡男・義詮を任命」という圧倒的に師直側が有利となる条件で合意。人事から降ろされた直義は出家し、隠居を決め込んだ。
しかし直義はあきらめておらず、ひそかに京都を脱出し足利氏に恨みのある南朝方に寝返った。
南朝方も憎い足利尊氏の実弟である人間と組むべきかで大問題となったが、南朝の復興のために直義と手を組むこととした。
これにより、高師直と足利直義との争いは「高師直と北朝VS足利直義と南朝」という構図に変化した。
九州で尊氏に認知されず、直義の養子となった足利直冬が勢力を拡大。直冬は自分が認知されていないことを知りながら、自分を尊氏の息子と振る舞い、周囲を従わせていた。
怒った尊氏は1350年、師直の弟、師泰に直冬の討伐を命じるも敗北。これを受けた尊氏は重い腰を上げて自ら九州に出陣。さらには関東地方でも尊氏を支持する者たちが勢力を上げ始めた。
1350年12月尊氏は京都に到着するも、その間に直義が京都に逆襲しようとしているという話を聞き慌てて京都へと戻るも、尊氏が九州に行っている間に多くの勢力が直義側へとつき、尊氏側の勢力は惨敗。1351年2月に尊氏軍と直義軍が激突するも、直義側の圧勝に終わった。
尊氏・直義間で和平交渉が行われ、高師直・師泰親子は出家し政界から退くことを条件に合意がなされた。師直・師泰兄弟は帰路の途中に直義側の上杉能憲(憲顕の子、重能の養子)の襲撃にあい死亡。高一族は断絶した。
師直の死後、直義は義詮の補佐という形で幕府に復帰。軍事は依然として尊氏が行い、行政は義詮とその補佐である直義が担当する形となった。
ところが戦では直義が勝ったにもかかわらず尊氏はいまだに将軍の地位におり、尊氏側の、特に有力者については何のおとがめなし。反対に直義側についた者たちは敗者の領地をもらえず期待していた報酬を受けられなかったとして不満を募らせ始めた。
それだけでなく、補佐とは名ばかりで実質政治を行い、幼少期からの育ての親である高師直の死の原因を作った直義に義詮は強い不快感を表していた。
このような複雑な状況の中、1351年に斎藤利泰が闇討ちにあって死亡。桃井直常が闇討ちされるなど直義側の武将が次々と襲われる事件が発生した。
さらに同年8月、師直討伐に協力したのに南朝を正統と認めてくれなかったとして不満を募らせた北畠親房に尊氏が接触し、自分の側につけば正統と認めると吹聴して味方につけたことで直義は一気に孤立。8月に京都を脱出し、直義側が優勢な関東地方へと向かった。
1351年12月、薩埵峠の戦いで尊氏・直義軍が対決。結果は尊氏側の勝利に終わり、1352年1月に直義が降伏。幽閉された延福寺にて謎の死を遂げたことで3年にもわたる内乱はようやく終結となった。
しかし直義の復讐を果たさんとする直冬が九州で暴れ続け、南朝・北朝の問題が解決せず、さらには一連の戦乱をきっかけとして「幕府内の争いで不利になったら南朝につけばいい」ということがわかり、山名時氏や細川清氏のように幕府に不満を持つものが簡単に離反するなど、争いは終わらなかった。
これらの争いは、尊氏に代わって将軍となった義詮の手によって少しずつ解決することとなる。