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結城宗広

ゆうきむねひろ

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
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概要

生没年 文永3年(1266年)~暦応元年・延元3年(1338年)

鎌倉幕府滅亡

 元弘3年(1333年)5月22日、南奥州を治める御家人の一人として鎌倉幕府に仕えていたが、後醍醐天皇の綸旨を得たことにより、足利千寿王を旗頭とする討幕軍に参加、新田義貞らとともに鎌倉を陥落させる。

 同年、名和長年の根拠地・伯耆から京の都に戻った後醍醐天皇は幕府に擁立されていた光厳天皇を廃位して復位、天皇による親政を目指した。
 天皇は皇子の義良親王(後の後村上天皇)、北畠親房顕家父子を陸奥に下向させると宗広は陸奥諸郡奉行に就任、次いで式評定衆となって朝廷方の奥州政権を支えることとなった。
 その一方で、天皇は鎌倉にも成良親王と足利尊氏の弟・直義を派遣、関東の支配にも着手する。(このとき、天皇の命により捕らえられた護良親王も同行、親王は直義により土牢に幽閉された)
  

建武の新政の失敗

 後醍醐天皇の親政は人事の失敗、公家や寺社の優遇、鎌倉幕府追討に力を尽くした武士たちへの恩賞の不備、不要な建築物の造営などにより破綻、各地に反乱が頻発することとなり、建武2年{1335年)、ついに得宗北条高時の次男・時行が幕府残党3万を率いて蜂起、迎え撃った足利直義を破って鎌倉を占拠、幕府残党と護良親王が糾合することを恐れた直義は逃亡にあたって土牢に幽閉していた親王を殺害した。
  
 この凶報に足利尊氏は軍勢を率いて京より下向、わずか20日あまりで幕府残党を破って鎌倉を奪還、以後、尊氏・直義兄弟は朝廷からの帰洛命令に従うことなく鎌倉にとどまりつづける。直義は従ってきた将兵に(朝廷に無断で)恩賞を与え、そのこともあって朝廷は新田義貞らに尊氏追討の命を下した。
 当初、尊氏は恭順の意を示し寺に籠もったが、迎え撃った直義が破れて出陣、箱根でこれを打ち破ると京へ進撃、都を舞台に両軍入り乱れる戦いとなった。

 建武3年・延元元年(1336年)、奥州より北畠顕家が出陣、宗広もこれに従って足利軍に勝利したが、尊氏・直義兄弟を討つことができなかった。
 そのため、尊氏・直義兄弟はすぐに西国の武士を糾合して勢いを盛り返して勝利、湊川の戦において楠木正成正季兄弟は自刃、新田義貞の軍勢は壊滅的な打撃を受け、尊氏らが光厳上皇の弟・豊仁親王を新たな天皇(光明天皇)とする(北朝)と、後醍醐帝は降伏後、京より吉野に逃亡、朝廷をこの地(南朝)に立てることとなり、ここに2つの朝廷が並ぶこととなった。

 建武4年・延元2年(1337年)、顕家に従って再び畿内に出陣、翌暦応元年・延元3年(1338年)正月、各地で北朝軍を破るも和泉国堺浦で顕家は高師直軍に敗れて討死、顕家は直前に後醍醐天皇に「建武の新政」を批判する諌草を提出している。

 顕家討死後、宗広は奥州支配を再建することを提言、顕家の父・親房らとともに海路陸奥を目指したが、遭難し伊勢国吹上浦に漂着、宗広は伊勢安濃津(現・三重県津市)において死去した。

関連タグ

鎌倉時代 南北朝時代 太平記

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