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結城宗広

ゆうきむねひろ

結城宗弘とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・御家人。鎌倉幕府の治世下から建武の新政下にかけて奥州の統治を任され、南北朝動乱期には南朝側に属した。(1266年-1339年)
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生涯編集

生没年:文永3年(1266年)~暦応元年/延元3年11月21日(1339年1月1日)

伊達政宗(大膳大夫)の外祖父

鎌倉幕府滅亡~建武の親政編集

宗広が生まれた白河結城氏は、結城朝光(宗広の曽祖父に当たる)に端を発する下総結城氏の分家の一つであり、鎌倉幕府より陸奥南部の政務を任されていた有力御家人の一人でもあった。

後醍醐天皇の主導による倒幕運動が盛んになりつつある中、当初宗広は鎌倉方として、畿内への討伐軍に従軍するなどの働きを見せていたが、やがて後醍醐天皇より倒幕の綸旨を得た事で討幕軍に転じ、元弘3年(1333年)5月に足利千寿王を旗頭とする討幕軍に参加、新田義貞らとともに鎌倉を陥落させる。

 

倒幕後、後醍醐天皇による建武の新政下においても宗広は引き続き奥州の備えとして重用され、建武元年(1334年)には本家当主の結城朝祐を差し置いて、結城氏の惣領として一族全体の統括に当たるよう綸旨が下された。また皇子の義良親王(後の後村上天皇)、北畠親房顕家父子が天皇の命により陸奥に下向すると、宗広も陸奥諸郡奉行、次いで式評定衆となって朝廷方の奥州政権を支えることとなった。

宗広だけでなく、建武の新政下においては次男・親光も恩賞方や雑訴決断所の役人を歴任し、楠木正成らと併せて「三木一草」と称されるなど、父子共々建武の新政においてなくてはならない人材と見做されていた。

  

南北朝動乱編集

人事の失敗や公家・寺社の優遇、それと反比例するかのような武士たちへの恩賞の不備、さらには内裏造営や貨幣新造政策の失敗などにより、建武の新政も早々破綻を迎えつつある中、中先代の乱に端を発した足利尊氏の新政からの離反により、再び諸国は動乱の世へと突入していく事となる。


建武3年/延元元年(1336年)、関東より西上してきた足利軍による京都陥落の報を受け、奥州より北畠顕家が出陣。宗広もこれに従って足利軍に勝利し、後醍醐天皇より京都奪還の功を認められ宝刀「鬼丸」を授けられている。一方でこれに先んじて、足利軍が入京した際に次男・親光が尊氏の暗殺に失敗し、討ち取られるという悲運にも見舞われている。

また敗れた尊氏・直義兄弟も、程なくして西国の武士を糾合し、湊川の戦いを始めとする数々の合戦で朝廷軍を撃破。後醍醐天皇もこれを受けて吉野へ逃れ南朝を開くに至り、建武4年/延元2年(1337年)には顕家に従って再び畿内に出陣。翌暦応元年・延元3年(1338年)正月までにかけて各地で北朝軍を破るも、和泉国堺浦の合戦で顕家は高師直軍に敗れて討死、宗広も辛うじて吉野へ逃れる羽目になった。


顕家の討死後、宗広は南朝方の再起を期して奥州支配の再建を提言、義良親王や北畠親房らとともに海路陸奥を目指したが、その途上で遭難した末に親王や親房らと離散。宗広自身は伊勢国吹上浦に漂着した後、程なくして伊勢安濃津(現・三重県津市)において病没した。享年74。

宗広自身は最後まで忠実な南朝方であったものの、長男の親朝(小峰親朝)、そして孫で白河結城氏の家督を継いだ顕朝は、後に北畠親房との軋轢から南朝方より離反(この時に結城氏惣領の地位も手放している)。以降は北朝方として白河結城氏(小峰氏)の命脈を繋いでいく事となる。


神社の創建編集

現在の三重県津市に「結城神社」の祭神として祀られる。ここは宗広の死没の地とされ結城の森、結城塚、結城明神などと呼ばれ地元の人から崇敬を受けていた。文政7年(1824年)、津藩の藩主である藤堂高兌により社殿が造営され結城神社として創建され、明治12年(1879年)に村社となり、明治15年(1882年)に別格官幣社となり、建武中興十五社の1つになる。戦後は別表神社の指定を受ける。



追贈編集

明治16年(1883年)贈正四位

明治38年(1905年)贈正三位

大正7年(1918年)贈正二位



創作物での扱い編集

南北朝時代を語る上で欠かせぬ軍記物語『太平記』には、安濃津における宗広の最期について触れられた箇所が存在する。

前述の通り、伊勢に漂着した宗広はなおも奥州へ向かうべく10日ほど風待ちに及ぶも、限界を迎えた宗広は病に倒れ死の床についてしまう。その臨終に際しては、既に七十を越え身に余る栄華を受けたので心残りはないと前置きしながらも、「ただ都へ攻め上って朝敵を滅ぼせなかったのが残念、息子には後生の弔いは要らぬから朝敵の首を取って我が墓前に並べよ」と、平清盛もかくやな遺言をそばにいた時宗の僧に言い残したという。

また、その直後の段では宗広の人となりについて、「常に死人の首を見ないと気が晴れないと言い、僧尼男女を問わず日毎2、3人の首を切ってわざわざ自分の目の前に縣けさせていた」と、生まれついて暴虐な人物であったことが強調されており、それゆえ報いを受けて塗炭の苦しみを味わい、地獄に堕ちたと綴られている。

あくまでも軍記物である以上、これらの記述についてもある程度は割引いて捉える必要はあるものの、どちらかと言えば南朝方の武将を好意的に記すことが多い『太平記』の中にあって、この宗広に対しての散々な描かれ方にはどのような意図があったのか、今なお謎を残す形とされている。この描かれ方に対しては、後述の『逃げ上手の若君』で、忠臣である歴戦の将という高評価の記述から一気に落として重度のシリアルキラーとして締めているこの描かれ方について、「そのギャップは読むもの全てをドン引きさせる」とまで書かれている。


2021年より連載中の漫画『逃げ上手の若君』では、北畠顕家配下の将の一人として宗広も登場している(詳細はこちらを参照)が、前述の『太平記』における宗広の人となりを反映してなのか、人畜無害そうな容貌とは裏腹に「常に生首を見ないと気が収まらない」と公言して憚らない、重度の快楽殺人者という人物造形とされている。



関連タグ編集

鎌倉時代 南北朝時代(日本) 太平記

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