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結城朝光

ゆうきともみつ

結城朝光とは、平安時代末期~鎌倉時代にかけての武将・御家人。幕府草創期より源頼朝に仕え幕政に参与。下総結城氏の祖ともなった。(1168年-1254年、メイン画像の左端の人物)
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生涯

頼朝の側近として

仁安3年(1168年)に下野の豪族・小山政光の三男(四男とも)として生を受ける。幼名は一万丸、また元服直後は小山宗朝とも名乗っていた。兄弟に小山朝政(長兄)、長沼宗政(次兄)などがいる。
治承4年(1180年)、伊豆にて源頼朝が平家打倒のため挙兵。この時父・政光は大番役のため在京中であり、その留守中の家督を生母・寒河尼が代行していたが、寒河尼は頼朝の乳母を務めていた事もあり、朝光を伴って武蔵・隅田宿に滞在していた頼朝の下へ赴くと、朝光を側近として奉公させたいと願い出たのである。
頼朝はこの申し出を快諾するだけでなく、自らも烏帽子親となって朝光を元服させ、朝光は14歳にして頼朝の側近としての第一歩を踏み出す事となる。また小山氏の家督を代行していた寒河尼のこの行動によって、小山氏とその一党もまた頼朝の傘下に加わる格好となった。

翌養和元年(1181年)には、頼朝の寝所を警護する11名の側近(「家子」)の一人としても選抜され、さらに2年後に発生した野木宮合戦の時も含め、戦勝祈願の際の御剣役を多数務めるなど、乳母子の関係にあった事も影響してか頼朝からは特に目をかけられていたようである。またこうした厚遇ぶりや母の出自などから、頼朝の落胤ではないかという説も一部の史料には見受けられる。
ちなみに、この野木宮合戦は頼朝と競合していた頼朝の叔父・志田義広足利俊綱(藤姓足利氏当主で、後に室町幕府を開く源姓足利氏とは別の氏族)を、朝光の兄である小山朝政と長沼宗政、そして頼朝の弟である範頼らが打ち破った戦であり、戦後に頼朝は朝政ら合戦に加わった諸将のみならず、朝光にも恩賞として下総の結城郡を所領として与えている。これが江戸初期まで続く名門・下総結城氏の起源となった。

また武将としても、元暦元年(1184年)の木曽義仲追討、続いて平氏追討にも参加、翌年の壇ノ浦の戦いまで各地を転戦。文治5年(1189年)の奥州合戦においては、阿津賀志山の戦いで奥州藤原氏方の守将・金剛別当秀綱を討ち取り、その功が元で白河三郡を領地として与えられている(後年、孫の祐広が当地の所領を受け継ぎ白河結城氏を創設)。また領地と共に平泉の莫大な財宝も恩賞として得たとされ、これが後世「結城埋蔵金」の伝説の元ともなった。
この他、酒匂宿において源義経に対し頼朝からの「鎌倉入り不可」と当地への逗留の命令を伝えたり、建久6年(1195年)の東大寺再建供養への参列の際には衆徒の乱闘を調停し「容貌美好、口弁分明」と称賛される、などといった働きも残している。

御家人の重鎮として

正治元年(1199年)に主君・頼朝が没して間もなく、朝光は生涯最大の危機を迎える事となった。事の発端は同年秋、在りし日の頼朝の思い出を語った際に「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた事による。この発言を耳にした将軍側近の梶原景時が、将軍に対する誹謗・謀叛の証として将軍・源頼家に讒言した事により、朝光の立場は俄かに危ういものとなったのである。
これを知った朝光は、三浦義村和田義盛らに相談の上他の御家人達に対し、景時に対する糾弾状の作成を呼びかけた。予てより景時の振る舞いに反感を抱いていた御家人ら66名もこれに賛同し、瞬く間に景時糾弾の連判状が作成されると、将軍側近の大江広元へと提出された。景時の才を惜しんで一度は将軍への言上を保留としていた広元であったが、義盛らの圧力もあって最終的には言上されるに至っている。
この連判状に対し、景時は一切の抗弁もせず所領に引き退き、事実上幕府より追放される格好となった。そして失脚から間もない翌正治2年(1200年)正月、景時とその一族は上洛の途上、駿河において在地の武士たちに襲撃され、敢え無い最期を迎えた(「梶原景時の変」)。

景時ら梶原一族の討滅によって窮地を脱した朝光であったが、その後も幕府内における御家人達の抗争は留まる事を知らず、元久元年(1204年)に御家人として尊敬していた畠山重忠が陰謀に巻き込まれて討たれると、それを機に朝光も今まで以上に慎ましい生活を送るようになり、政治の表舞台にも自ら進んで出る事はなくなった。
その後、東国にて専修念仏の布教に当たっていた親鸞に深く帰依すると共に、その高弟である真仏を招いて自領内に結城称名寺を建立。同寺を結城氏の菩提寺に定めると、嘉禄元年(1225年)には朝光自身も出家し「結城上野入道日阿」と号している。

とはいえ、その後の北条氏による執権政治が確立していく中でも、朝光は幕府草創期からの重鎮として引き続き重用された。
元久2年(1205年)に起きた牧氏事件では、北条時政の手元にあった3代将軍・源実朝を北条義時の自邸に迎え入れる役目を三浦義村や長沼宗政らと共に担い、実朝の身の安全の確保に一役買っている。さらに承久の乱においては東山道軍に属して参戦(この時東山道軍の大将に任ぜられたとも言われているが、これについて触れられているのは『吾妻鏡』のみであり、基本的に東山道軍は甲斐源氏が中心であったという見方が主流である)。また後年、北条泰時によって設置された評定衆にも、一時期のみであるが名を連ねていた事もある。
最晩年の宝治2年(1248年)には、足利氏との間で書簡の署名の書式を巡って訴訟が発生。源氏の文葉として、あくまで他の御家人より格上である事を主張する足利氏に対し、朝光は生前頼朝から「足利と同等たるべし」との許しを得ていると一歩も引かず、最終的には執権・北条時頼によって朝光の主張が認められるに至っている。

朝光がその生涯を全うしたのは、建長6年2月24日(1254年3月14日)の事であった。この頃までに三浦氏も宝治合戦にて討滅の憂き目に遭うなど、幕府草創以来の他の有力な御家人達が相次ぐ抗争の中でさらに命を落としていく中、87年という当時としては非常な長命に恵まれると共に、結城氏もさらなる隆盛を迎える事が出来たのは、ひとえに朝光の人柄によるところが大きいと言えるのかも知れない。

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平安時代 鎌倉時代 鎌倉幕府 御家人 浄土真宗
源頼朝 北条義時 梶原景時 親鸞
結城秀康 - 直接の血縁はないが、下総結城氏の家督を継承している。

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