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結城朝光

ゆうきともみつ

結城朝光とは、平安末期~鎌倉中期にかけての武将・御家人。小山政光の四男で、鎌倉幕府草創期より源頼朝に仕え幕政に参与。下総結城氏の祖ともなった。(1168年-1254年、メイン画像の左端の人物)
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生 没:仁安3年(1168年) - 建長6年2月24日(1254年3月14日)

幼 名:一万丸

通 称:七郎、上野入道

 諱 :宗朝→朝光

法 名:日阿

官 位:上野介


父:小山政光

母:寒河尼

長兄:小山朝政

次兄(三兄とも):長沼宗政

母方の叔父:八田知家


政光の四男(三男とも)。小山朝光と表記されることもあり、兄である朝政や宗政と共に「小山三兄弟」と呼ばれることもある。


ちなみに父・政光と母・寒川尼は栃木県小山市イメージキャラクター『政光君と寒川尼ちゃん』のモデルになっている。

https://www.youtube.com/watch?v=rVUv47Rfz34


メイン画像は鷲宮神社における結城朝光・源頼朝・小山政光・梶原景時の並び。


生涯編集

源頼朝の側近として編集

生家の小山氏は、平安中期に活躍した俵藤太こと藤原秀郷の流れを汲む一族とされ、下野の豪族・太田政光が小山姓を名乗ったのに端を発する。


治承4年(1180年)、伊豆にて源頼朝が平家打倒のため挙兵。この時、父・政光は大番役のため在京中であり、その留守中の家督を寒河尼が代行していたが、寒河尼は一万丸を伴って武蔵・隅田宿に滞在していた頼朝の下へ赴くと、一万丸を側近として奉公させたいと願い出た。

頼朝はこの申し出を快諾するだけでなく、自らも烏帽子親となって一万丸を元服させた。こうして朝光は14歳にして頼朝の側近としての第一歩を踏み出す事となる。また小山氏の家督を代行していた寒河尼のこの行動によって、父兄たちを始め小山氏とその一党もまた頼朝の傘下に加わる格好となった。


翌養和元年(1181年)には、北条義時らと共に頼朝の寝所を警護する11名の側近(「家子」)の一人としても選抜され、さらに2年後に発生した野木宮合戦の時も含め、戦勝祈願の際の御剣役を多数務めるなど、乳母子の関係にあった事も影響してか頼朝からは特に目をかけられていたようである。またこうした厚遇ぶりや母の出自(寒河尼は頼朝の乳母の一人だった)などから、頼朝の落胤ではないかという説も一部の史料には見受けられる。

ちなみに、この野木宮合戦は頼朝と競合し、木曾義仲とも連携していた頼朝の叔父・志田義広源為義の三男)や足利俊綱(藤姓足利氏当主で、足利義康を祖とする源姓足利氏とは別の氏族)を、朝政・宗政・朝光の「小山三兄弟」に頼朝の弟である源範頼らが打ち破った戦であり、戦後に頼朝は朝政ら合戦に加わった諸将のみならず、朝光にも恩賞として下総の結城郡を所領として与えている。これが江戸時代初期まで続いた名門・下総結城氏の起源となった。


また武将としても、元暦元年(1184年)以降の義仲及び平家追討戦にも参加し壇ノ浦の戦いまで各地を転戦。文治5年(1189年)における藤原泰衡との奥州合戦においては、阿津賀志山の戦いで奥州藤原氏方の守将・金剛別当秀綱を討ち取り、その功が元で白河三郡を領地として与えられている(後年、孫の祐広が当地の所領を受け継ぎ白河結城氏を創設)。また領地と共に平泉の莫大な財宝も恩賞として得たとされ、これが後世「結城埋蔵金(埋蔵金については結城晴朝の記事も参照)」の伝説の元ともなった。

この他、酒匂宿において源義経に対し頼朝からの「鎌倉入り不可」と当地への逗留の命令を伝えたり、建久6年(1195年)の東大寺再建供養への参列の際には衆徒の乱闘を調停し「容貌美好、口弁分明」と称賛される、などといった働きも残している。


御家人の重鎮として編集

正治元年(1199年)に主君・頼朝が没して間もなく、朝光は生涯最大の危機を迎える事となった。事の発端は同年秋、在りし日の頼朝の思い出を語った際に「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた事による。この発言を耳にした将軍側近の梶原景時が、将軍に対する誹謗・謀叛の証として将軍・源頼家に讒言した事により、朝光の立場は俄かに危ういものとなったのである。

これを阿波局(阿野全成の妻)から知った朝光は、三浦義村和田義盛らに相談の上、二人の兄や叔父の八田知家、さらに他の御家人達に対し景時に対する糾弾状の作成を呼びかけた。

予てより景時の振る舞いに反感を抱いていた御家人ら66名もこれに賛同し、瞬く間に景時糾弾の連判状が作成されると、将軍側近の大江広元へと提出された。景時の才を惜しんで一度は将軍への言上を保留としていた広元であったが、義盛らの圧力もあって最終的には言上されるに至っている。

この連判状に対し、景時は一切の抗弁もせず所領に引き退き、事実上幕府より追放される格好となった。そして失脚から間もない翌正治2年(1200年)正月、景時とその一族は上洛の途上、駿河において在地の武士たちに襲撃され、敢え無い最期を迎えた(梶原景時の変)。


景時ら梶原一族の討滅によって窮地を脱した朝光であったが、その後も幕府内における御家人達の抗争は留まる事を知らなかった。中でも元久元年(1204年)、畠山重忠とその一族が、北条時政らの陰謀により討滅の憂き目に遭う(畠山重忠の乱)と、御家人として尊敬していた重忠の死を機に朝光も今まで以上に慎ましい生活を送るようになり、政治の表舞台にも自ら進んで出る事はなくなった。

若年時から念仏に傾倒し法然に帰依していた朝光だが、後年東国にて専修念仏の布教に当たっていた親鸞に深く帰依。そして、その高弟である真仏を招いて自領内に結城称名寺を建立。同寺を結城氏の菩提寺に定めると、嘉禄元年(1225年)には朝光自身も出家し「結城上野入道日阿」と号している。


とはいえ、その後の北条氏による執権政治が確立していく中でも、朝光は幕府草創期からの重鎮として引き続き重用された。

元久2年(1205年)に起きた牧氏事件では、北条時政の手元にあった3代将軍・源実朝を北条義時の自邸に迎え入れる役目を、三浦義村や長沼宗政らと共に担い、実朝の身の安全の確保に一役買っている。さらに承久の乱においては東山道軍に属して参戦(この時東山道軍の大将に任ぜられたとも言われているが、これについて触れられているのは『吾妻鏡』のみであり、基本的に東山道軍は武田信光ら甲斐源氏が中心であったという見方が主流である)。また後年、北条泰時によって設置された評定衆にも、一時期のみであるが名を連ねていた事もある。

さらに時代が下り、執権職が北条経時(泰時の孫)、そしてその弟の時頼へと移る中にあってもなお、朝光は健在であった。宝治元年(1247年)、三浦泰村(義村の嫡子)が時頼や安達景盛・泰盛らによって族滅へと追いやられた(宝治合戦)際には時頼に猛抗議している他、宝治2年(1248年)には足利義氏との間で書簡の署名の書式を巡って訴訟が発生。源氏の門葉として、あくまで他の御家人より格上である事を主張する義氏に対し、朝光は生前頼朝から「足利と同等たるべし」との許しを得ていると一歩も引かず、北条重時の仲介もあり最終的には時頼によって朝光の主張が認められた。


建長6年、朝光は87歳にて大往生を遂げた。先述の宝治合戦も含め、晩年に至ってなお御家人同士の抗争が打ち続く中にあって、討滅や失脚の憂き目に遭う事もなく、その死後も結城氏が栄えたのは、ひとえに朝光の人柄によるところが大きいと言えるのかも知れない。


結城朝光墓~茨城県結城市称名寺

https://www.youtube.com/watch?v=4EQak0_b0Ig


関連タグ編集

平安時代 鎌倉時代 鎌倉幕府 御家人 浄土真宗

源頼朝 北条義時 梶原景時 親鸞

結城宗広 - 南北朝期の子孫の一人で、白河結城氏の当主。楠木正成らと共に「三木一草」と呼ばれた結城親光は宗広の子に当たる

結城晴朝 - 下総結城氏、並びに藤原秀郷の血を引いている最後の当主。小山氏出身

結城秀康 - 晴朝の養子。徳川家康の次男で、越前松平家の祖

引っ越し大名! - 秀康の五男で、下総結城氏の祭祀を引き継いだ松平(結城)直基の子・直矩の事績を元ネタとした作品。奇しくも結城氏ゆかりの白河の地で生涯を終えている

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