八田知家
はったともいえ
生没年:不詳(1142年〜1218年という説がある)
通称:四郎?
法名:尊念
官位:後白河院武者所、右馬允、右衛門尉、筑後守
鎌倉幕府役職:常陸国守護
鎌倉幕府での肩書:13人の合議制の宿老
下野国の武士・八田(宇都宮)宗綱の子という。
兄に宇都宮朝綱、姉に源頼朝の乳母である寒河尼がいる。
1142年生誕説を取れば宗綱(1086年生、源為義・平忠盛・源頼政たちよりさらに年長)が還暦になる前に誕生した息子になる。
幼年期ならびに青年期の記録が一切ないために詳細は不明。『保元物語』には「下野国の八田四郎が源義朝の郎党として出陣した」という記述があり、この「八田四郎」が知家ならば保元の乱が初陣になるが、平治物語には登場しないため平治の乱には参戦していない可能性が高い。
なお、一説には知家を義朝の落胤とし、幼時に義朝が平治の乱で落命すると母方の祖父・宇都宮宗綱に匿われてその養子となった、と紹介している史料もある。しかし前述の『保元物語』の記述と大きく乖離するため、現在ではほぼ否定されている。
父以来の常陸国新治郡八田(現・茨城県筑西市八田)に本拠を置き、父と同じく八田を号した。
平氏政権下での動向は不明だが治承・寿永の乱が勃発すると知家は治承四年(1180年)に挙兵した亡き義朝の三男頼朝に従うが、一時的に記録に登場しなくなっているため、動向が不明となっている。
再び記録に見られるのは寿永二年(1183年)2月に頼朝の異母弟・源範頼と頼朝の叔父・志田義広が戦った野木宮合戦の頃で、範頼に小山朝政・長沼宗政・結城朝光の「小山三兄弟」とともに打ち破っている。
なお、小山三兄弟の中で朝光のみ寒河尼の息子で知家の実の甥でもある。
それからしばらくは記録から名前が消えたり現れたりしているが、元暦元年(1184年)6月には範頼の軍に加わり小山三兄弟とともに平家討伐の兵を西に進めている。また平家に仕えていた兄・朝綱もこの頃は頼朝の配下に加わっている。
その翌年の元歴2年(1185年)には頼朝を通さずに朝政らと朝廷から右衛門尉の官職を勝手に賜っていたため、頼朝から「西国を鎮めに行く途中に京都で官職を受けるなどということは、のろまな馬が道草を食っているのと同じだ」と叱責されたがすぐに許され、同年には常陸国守護に任ぜられた。これ以降も、京都から下ってきた検非違使の宿所が知家の家に指定されたり、さまざまな儀式の供の一人として登場したり、また文治四年(1188年)12月には、朝廷の使者が源義経追討の院宣を奥州の藤原泰衡へ届ける途中で鎌倉に寄り、その接待を知家が命じられているなど、必ずしも大役というわけではないが、頼朝からの信頼が厚かったためにそれらの仕事を任されていたということを示す記録が残っている。
建久元年(1190年)4月11日、頼朝の長男・万寿(のちの源頼家)の初めての笠懸が行われたが、この日知家は大幅に遅刻してしまい、頼朝から大目玉を食らい、頼朝は昼を過ぎても知家に対してはずっと機嫌を損ね通しであった。そこで知家は遅刻したことを陳謝しつつも、笠懸の進行において、合理的な助言を行い、この助言で頼朝は機嫌を直したという。
建久四年(1193年)の曽我兄弟の仇討事件では、「頼朝様が暗殺された」という誤報が飛び交うなか、近隣の御家人の多気義幹の勢力を大きく削ぐため一計を案じた。まず「知家が義幹を討伐しようとしている」という噂を流し、義幹に防備を固めさせることとなる。
つまり「頼朝の安否が不明な状態で地元に戻っている御家人が鎌倉に来ず何故か武装を強化し始めた」という状況を作り上げて、多気氏をつぶす大義名分を打ち立てたのである。
とはいえ、さすがの頼朝もこの一件を怪しんで知家に尋問するが、「私は義幹殿に『頼朝様の安否の確認のためにも、一緒に鎌倉に参りましょう』と誘いましたが、義幹殿は私の誘いを断って、武装して館に立て籠もっていました」と、自分が義幹を焚き付けたことは隠して報告し、義幹が本領没収となったことで、知家の計画は成功した。
正治元年(1199年)5月7日には頼朝の次女で、元々病弱であった三幡の病状が思わしくなくなると、京都から医者を呼び寄せ、医者の懸命な治療によって一時は小康状態に入るものの、再び症状が悪化して、結局三幡は数え14歳でこの世を去っている。
頼朝が急死し次男の頼家が2代目鎌倉殿になった後は「13人の合議制」の一員となった。これは北条義時から合議制への加入を乞われたことによるものである。
建仁3年(1203年)6月23日には頼朝の異母弟にして頼家の叔父である阿野全成の処刑を頼家の命で実行している。全成は頼家の母・北条政子の妹かつ頼家の弟・千幡(のちの源実朝)の乳母の阿波局を妻に持ち、北条氏と共に反頼家派を形作っていたため、頼家の怒りを買い武田信光(信義の五男)に捕縛され常陸へ配流されていた。
これより少しあとには剃髪して、名を尊念と改めている。
全成の斬首以降は知家に関する記述が激減している。和田合戦が発生した建暦三年(1213年)前後には常陸守護職を長男の小田知重に譲ったとされる。また同年12月1日の火事で知家邸も被害に遭ったという。承久三年(1221年)の承久の乱では後方での指揮にあたったという記録が残るのみであると言っても過言ではない。
ただ、知家の没年を建保六年(1218年)とする説もあるため、承久の乱では後方での指揮にあたったという記録は記録者の記憶違いか、捏造であるとされている。
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