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概要

生没年:応保2年(1162年)~仁治元年(1241年)11月19日

出身地:下野国

肩書:淡路守、鎌倉幕府摂津・淡路守護


下野国の有力豪族・小山政光の次男として誕生した。

兄弟には小山朝政結城朝光がおり、宗政と合わせて「小山三兄弟」と呼ばれる。


武将としての記録は寿永2年(1183年)から見られ、源頼朝の叔父で平家方についていた志田義広を野木宮合戦で討ち、その後は源頼朝に従って平家追討に従軍した。

文治5年(1189年)9月、頼朝の奥州合戦に従軍。頼朝から信濃国善光寺地頭職を与えられたが、承元4年(1210年)8月に改替。正治2年(1200年)11月、美濃国大榑荘の地頭職を得た。

その後、建仁3年(1203年)の比企の乱、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱の際には北条氏側に加担している。


建暦3年(1213年)9月、畠山重慶の謀反の企てありとの報が幕府に届けられた。畠山重慶は元久2年(1205年)の畠山重忠の乱で討たれた重忠の末子である。ときの将軍源実朝は宗政に生け捕りを命じるが、宗政は重慶の首を斬り帰参した。

実朝は宗政をこう叱りつけ、一定期間出仕を辞めさせた。

「かつて重忠は罪なくして討たれました。その子供が復讐を企てるのは当然の話でしょう。命じた通りにまずその身を生け捕って参れば、ここでまず重慶の話を聞いてから裁判を行って、正しく判決を出すことができたはずなのに、お前は重慶の命を奪ってしまいました。何という軽はずみなことをしてくれたのです。しばらくは自邸にこもっていなさい」。



普通であれば「相手が抵抗して、どうしても倒さざるを得なかったのです。お許しください」と多少の嘘を交えつつも謝罪するのが当たり前なのだが、この実朝からのお叱りに、宗政は目を怒らせて反駁した。


「そもそも今回の件は、どう言い訳しようが謀反と変わらないでしょう。もし重慶を生け捕りにして帰ってくれば、あなたの側女たちがあなたに色々と申し出て、あなたは重慶を許すかもしれない。そうすると、将軍に対する忠誠を軽んじる者が現れかねない」


ここで宗政の怒りがヒートアップし、なおも言い続ける。


「そもそもあんたは、蹴鞠にうつつを抜かして、武芸に全く励まなくなっちまった。側女ばっかり大事にして、俺たち坂東武者は、もうお払い箱ってわけですかい。合戦で得た領地だって、合戦で手柄を立てた武者には土地をお与えにならないで、やっぱり側女にお与えなさりやがってよお!」


上の発言は「吾妻鑑」に記載されていたものを現代語に直して解釈したものであるが、これ以外にも散々に悪口雑言を並べ立てた。結構口汚い発言だったようで、「吾妻鏡」にも「あまりにひどすぎて書けなかった」という意味の文言が記されている。


閏9月16日、兄・小山朝政の申請により実朝は宗政を許した。


承久3年(1221年)の承久の乱にも鎌倉方として従軍した。その直後、摂津国守護職・摂津藍荘地頭職を得て、更に淡路国守護職、淡路笑原保・上田保地頭職を給与され、国守・守護を兼任して淡路国を統治した。寛喜2年(1230年)8月には嫡男の時宗に家督を譲っている。


仁治元年(1240年)11月19日に下野長沼荘で死去。享年79。


人物

『吾妻鑑』によれば、宗政は気性が荒く、些細なことで激昂する人物で、「この鎌倉の武勇は、全部俺のおかげだ」と公言して憚らない、尊大な性格であったと伝わっている。


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