比企の乱
ひきのらん
鎌倉幕府初代将軍、源頼朝が死に、その息子である源頼家が後を継ぎ、新たな鎌倉殿となった。
頼家の母親は北条政子であったことから、頼朝亡き後は北条氏が強大な権力を持つと思いきや、北条氏よりも強力な力を持つ一族がいた。それが比企氏である。
比企氏はもともとはそこまで強力な一族ではなかったが、頼朝を幼い頃から支えた乳母の一人が比企尼であったことから、その一族もまた優遇された。頼朝は生前、幕府に強力な後ろ盾が欲しいからと、信頼できる比企氏を跡継ぎの頼家の乳母とし、北陸や信濃に領土を与え守護に任じた。
頼家が後を継いでからも、比企氏の強大さは変わらなかった。これに対してよく思わなかったのが北条時政である。これ以降、比企氏と北条氏は対立していくことになる。
比企氏と北条氏はそれぞれ対立していく中でそれぞれ頼家の次の後継者を考えていた。時政は頼家の弟の源実朝(この時はまだ千幡)を、能員は頼家の息子の一幡を後継に臨んでいた。実朝は政子の息子であり時政から見れば孫である。さらに実朝の乳母は時政の娘の阿波局であり実朝は北条氏との繋がりが強かった。一方で一幡は頼家の子であるが、母は能員の娘の若狭局であるため、時政も能員も互いの孫を後継ぎにしようとしていたのである。
しかし、当時の頼家の嫡男は頼朝の遺言によって次男の公暁とされていた。しかし、前述した通り、頼家は将軍をやる上で、比企氏を強大な後ろ盾としたかったため後継ぎを一幡としたのである。これにより北条氏は比企氏のみではなく、頼家からも敵視されるようになる。
そんな中、阿波局の夫阿野全成は北条派として実朝を将軍にしようと陰謀していた。しかし比企氏と頼家が先手を打ち、建仁三年(1203)五月に頼家は全成を謀反人として捕らえ、常陸に配流した。六月には比企派に組していた八田知家によって誅殺された。そしてその子阿野頼全も同年七月に京都で殺害された。こうして比企派と北条派の対立はいよいよ高まっていった。しかし、事態はここで大きく急転直下する。
建仁三年(1203)年七月、頼家は重病を患い、危篤状態に陥った。これを好機とした時政はついに「比企氏の変」を起こす。
同年八月に頼家は出家し、一幡への家督継承の準備を進めた。しかし、九月二日、能員の権勢が高まることを恐れた時政が能員を呼び出して誅殺する。実行したのは天野遠景と仁田忠常であった。
さらに時政は一幡殺害を計り、軍勢を差し向けた。一幡と若狭局は逃げ延びたが、残る一族は討たれ比企氏は滅亡した。(小御所合戦)
やがて頼家は回復し、一連の騒動を聞いて激怒するも、もはや彼に味方する御家人はおらず(頼家に時政討伐を命じられたのは和田義盛と仁田忠常だが、両者はこれを無視し、義盛は逆に時政に頼家の事を通報し北条派としての旗色を鮮明にしている。一方、能員暗殺の実行者でもあった忠常だが、ここにきて日和見な態度をとったため、これが頼家と通じていると疑われ北条派に討たれた)、政子によって修禅寺に押し込めてしまった。十一月になって一幡は捕らえられ、若狭局と共に北条義時の手勢によって刺し殺された(吾妻鏡などの史料によっては一幡・若狭局は九月の襲撃の際に比企の館共々焼け死んだ、ともされる)。また頼家も、翌年七月十八日に時政の刺客によって暗殺された。
これにより新たな将軍は実朝となり、北条氏の権威がより一層強化された。