概要
生没年:保延4年(1138年)~建保3年1月6日(1215年2月6日)
通称は四郎。
平安時代末期~鎌倉時代初期にかけて、伊豆を拠点に勢力を有していた武将。流人として伊豆に送られてきた源頼朝の義父となり、その挙兵を支え鎌倉幕府の成立に貢献。頼朝の死後に発生した御家人間での権力闘争を勝ち抜き、幕府初代執権として権勢を振るった。しかし3代将軍・源実朝の代に、頼朝と同じく娘婿となった平賀朝雅を将軍にしようとして失敗、強制隠居に追い込まれ伊豆で没した。
家系
父母については諸説あるが、前者は北条時方もしくは時兼、後者は伴為房の娘であるとの見方が今のところは有力である。息子に宗時・義時(鎌倉幕府第2代執権)、時房(鎌倉幕府初代連署)、政範など。娘に政子(源頼朝の正室)、時子(足利義兼室)、阿波局(阿野全成室、源実朝の乳母)など。
北条氏は平氏(桓武平氏)の子孫を称しているが、平貞盛の次男・平維将の子孫が伊豆北条に拠り北条を称したとされる。維将の次弟・平維衡の子孫の平忠盛・清盛らを輩出した伊勢平氏とは遠くはあるが血縁関係がある。また太平記等では北条氏嫡流の得宗家を「平家」と呼ぶが、戦国時代の後北条氏と違い仮冒扱いされることもある。
従来は『吾妻鏡』の記述やその保有武力の少なさなどから、無官の一豪族に過ぎないと見做されてきた時政であるが、吉田定房の著書『吉口伝』などを始めとする史料による裏付けや、北条氏の本拠が伊豆国府に近接した軍事・交通の要衝に位置していたといった状況などから、近年では国衙在庁の官人であったとの見解も示されつつある。
生涯
伊豆の豪族として
前述した国衙との関係も含め、その前半生については未だ謎が多いが、平治の乱で敗れた源義朝の嫡男・頼朝が、永暦元年(1160年)3月に14歳で伊豆国・蛭ヶ小島に流された時から、歴史は動きはじめる。
この時、時政は伊東祐親とともに頼朝の監視役を命じられ、嘉応2年(1170年)4月には、伊豆大島に流されていた源為朝(保元の乱で敗れた源為義の八男、頼朝の叔父)が反乱を起こし、その追討軍に加わったとされている。なお時期は不明であるが、少なくともこの頃までには継室である牧の方を娶っていたと見られている。
治承元年~2年(1177~78年)頃、時政は大番役勤仕のため在京の身であったが、時同じくして娘・政子と流人・頼朝との間に、長女・大姫が誕生していた。この事が平家の耳に入るのを恐れた(※)時政は当初、二人の仲を認めなかったが、後に政子が頼朝のもとへと逃れた事、また在京を通して平家の世が長くは保たないと見越した事などから、しぶしぶ婚姻を認めたという。
※これ以前にも頼朝は伊東祐親の娘(八重姫)との間に千鶴丸という男子を設けており、やはり平家からの怒りを恐れて祐親がその男子を殺害していた、という経緯があった。またそもそも頼朝と祐親娘との婚姻が破綻したのが、頼朝が彼女と婚を通じた傍らで政子とも交際していた事に、祐親が激怒したのが原因であるとの見方も示されている。
頼朝挙兵
治承4年(1180年)4月、以仁王(後白河法皇の第三皇子)が「平家追討」を促す令旨を全国に発し、源頼政と共に平家を打倒すべく挙兵。この挙兵は程なく鎮圧されるも、源行家によって令旨は木曽義仲を始め、諸国で雌伏を続けていた源氏勢力の元にもたらされた。
そしてそれは頼朝も例外ではなく、当初は事態を静観していたものの、やがて平家の追及の手が伊豆にも伸び窮地に追い込まれる事となる。時政もこの時、一連の流れの中で平家の影響力を背景とした伊東氏からの圧迫を受けており、この窮地を前に時政と頼朝は東国の豪族を糾合し、挙兵を決意するに至ったのである。
『吾妻鏡』の記すところによればその挙兵を控え、頼朝は工藤茂光や土肥実平など、頼朝に味方する豪族を一人ずつ私室に呼んで密談に及んでおり、その度に「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と告げては彼らに「自分だけが特に頼りにされている」と奮起させたが、実際に挙兵に関する「真実の密事」について知っていたのは時政のみだったとされる。
そして同年8月、頼朝は遂に伊豆で挙兵、時政も息子の宗時・義時らとともにこれに加わり、手始めに伊豆国目代・山木兼隆を討ち取るが、相模の三浦一族との合流に手間取っているうちに平家方の大庭景親軍と伊東祐親軍に挟撃され、相模国石橋山にて大敗を喫してしまう(石橋山の戦い)。
この合戦の折、「後三年の役で奮戦した鎌倉景正の子孫である」と名乗った景親に対し、時政が「景正の子孫ならば、なぜ頼朝公に弓を引く」と反論、さらに景親が「昔の主でも今は敵。平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と応じたという「言葉戦い」の逸話が、『平家物語』に残されている。
この敗戦の後、辛くも逃げ延びた頼朝軍は再起を期して四散。長男・宗時が落ち延びる途中、伊東祐親軍に囲まれ討ち取られるという悲運にも見舞われる中、時政と次男・義時は頼朝からの密命を帯び、先んじて挙兵に及んでいた武田信義ら甲斐源氏の一党を味方に引き込むべく甲斐へ赴いたとされる。他方で史料によってはそのまま甲斐へ向かったとも、あるいは引き返し頼朝らに先んじて安房に渡ったとも記されており、敗走後の時政父子の動向については現在でも見解が分かれている状態である。
これより約2ヶ月後の富士川の戦いで源氏軍が大勝した後、鎌倉へ戻った頼朝は新築の大倉亭を居と定めているが、その移徙の儀には時政も列していた事から、少なくともこの時点では頼朝に従って鎌倉にあったと見られている。
鎌倉幕府の御家人として
以後、頼朝は参集してきた異母弟の範頼、義経兄弟や、石橋山の戦いで敵対しながらも頼朝の命を救った梶原景時らに、木曽義仲や平家追討を任せつつ、自らは鎌倉を拠点に新たな武家政権を作ろうと政務に専念する事となる。
その一方で時政については、その後4年ほどはあまり表立った活動は見られてない。寿永元年(1182年)に長女・政子が亀の前(頼朝の愛妾)の匿われていた邸宅を打ち壊させた際、それを実行した牧宗親(時政の舅に当たる)に対する頼朝の仕打ちに憤慨して一族の大半と共に伊豆に引き上げた事、元暦元年(1184年)3月に土佐に書状を出した事、この二点が知られる程度である。
とはいえ元暦元年には武田信義が失脚し駿河守護を解任されており、時政がその後任に据えられたとする見解もあり、この時期の時政は本拠である伊豆だけでなく、縁戚関係を活かして駿河への勢力拡大を図っていた(当地には牧氏、それに娘婿の阿野全成がそれぞれ所領を有していた)とも考えられている。
文治元年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いにおいて平家が滅亡すると、頼朝・義経兄弟の対立が本格化し、同年10月に義経と源行家が頼朝追討の院宣を得ると、その翌月に頼朝は時政を京に派遣。千騎の兵を率いて入京した時政は、かつての伊豆守で時政とも交流のあった吉田経房を通じて院との交渉に当たり、義経らの追捕を名目とした「守護・地頭」の設置を認めさせた(文治の勅許)。
また京における時政の務めは、義経の追捕やそれに関連した処分に留まらず、治安維持、平氏残党の捜索、朝廷との政治折衝など多岐に亘っており、やがてその職務は「京都守護」という役職として定着する事となる。翌文治2年(1186年)3月に時政は任を辞し鎌倉に戻るが、在京中に行った施策は強権的な面もありつつも「事において賢直、貴賎の美談するところなり」「公平を思い私を忘るるが故なり」と好意的に評されており、義経失脚後の混乱の収拾と、幕府の畿内軍事体制の再構築という目的を着実に果たしたのである。
京都から戻ってきて以降の時政の動向についても、富士川の戦い以降の数年間と同様にやはり謎に包まれた部分が多い。確実に記録の残る事績としては、文治5年(1189年)6月には頼朝による奥州征伐に際し、その戦勝祈願のため伊豆北条の地に願成就院を建立した事、同年の内に牧の方との間に嫡男・政範を設けた事などが挙げられる。
また建久4年(1193年)5月に行われた富士の巻狩りの最中に伊豆の有力者であった工藤祐経が横死し、さらに翌年に掛けて遠江に勢力を有していた甲斐源氏の安田義定・義資父子が処刑されると、これと前後してそれまで工藤氏が行っていた三島神社の神事経営を沙汰したり、義定亡き後の遠江守にも任ぜられたと見られるなど、競合する者のなくなった伊豆・駿河・遠江の三カ国における勢力を確実なものとした。
鎌倉御家人の暗闘
こうしてその勢力を伸張しつつあった時政が、本格的に歴史の表舞台に躍り出るのは正治(1199年)正月、頼朝薨去以降の事であった。
頼朝亡き後の「鎌倉殿」には彼の嫡男・頼家が就く事となるが、その独断専行ぶりなどへの反発や、予てからの将軍専制に対する御家人たちの不満の蓄積などもあり、僅か三月の内に訴訟の直裁権を取り上げられてしまう。そして新たに設けられたのが有力御家人による「十三人の合議制」であり、時政は次男・義時と共にその13人の中に加わるなど、幕政の中枢を担う事となった。
しかし一度噴き出した御家人らの不満は留まる事を知らず、やがて幕府内での政権を巡る暗闘へと発展していく事となる。正治元年11月には梶原景時が結城朝光を讒言した結果、有力御家人66人による糾弾を受けた末に失脚、翌正治2年(1200年)正月に上京の途上で、駿河の武士たちの襲撃により息子たちと共に討滅の憂き目に遭う(梶原景時の変)。
この景時糾弾のきっかけとなったのが、時政の娘・阿波局による朝光への密告であった事や、梶原一族が襲撃を受けたのが時政の勢力圏内であった事などから、この一件には時政ら北条一族の積極的な関与があったと見られている。
景時失脚によって幕府内での地位を高めた時政であったが、一方で頼家の代になってからは将軍外戚の立場を背景に、比企能員とその一族も幕府内にて枢要な地位を占めており、両者の対立もまた次第に先鋭化の一途を辿っていった。
建治3年(1203年)8月、頼家が俄かに危篤に陥ると、それを好機と見た時政は能員を自邸に招いて謀殺、さらに軍勢を差し向け比企一族を討滅に追い込んでいる(比企の乱)。
そして頼家を将軍の座より追いやると伊豆修善寺へ押し込め、その弟で阿波局が乳母を務めた実朝を新将軍に擁立せしめた。
同年10月には政所別当にも就任、異説もあるもののこの政所別当就任と併せて「執権」の職に任ぜられたとも言われており、これにより時政は主君である実朝や、同じく政所別当にあった大江広元を抑える形で、幕府における専制を確立する事となるのである。
牧氏事件
こうして幕府の実権を掌握し権勢を振るった時政であるが、一方で娘婿の平賀朝雅を通して支配を強めていた武蔵国を巡り、やはり時政の娘婿で同国の有力御家人であった畠山重忠とも軋轢を生じさせていく。同時期には嫡男の政範が早逝、さらに将軍職を継いだ実朝の朝廷寄りとも取れる政治姿勢(近年の研究から異論も呈されている)への御家人らの反感なども重なっており、こうした状況がその後の北条一族の内紛に繋がっていく遠因ともなった。
元久2年(1205年)6月、時政は平賀朝雅らの讒訴を受ける形で畠山重忠・重保親子に謀反の疑いをかけ、息子の義時・時房らの率いる大軍を派遣しこれを討ち滅ぼした(畠山重忠の乱)。さらに閏7月には牧の方との共謀により、将軍・実朝を廃して娘婿の朝雅を新たな将軍に据えようと画策している。
しかし、元々人望の高かった畠山重忠の強引な討滅は御家人たちだけでなく、実子である北条政子・義時ら一族内からも強い反感を招く事となった。そして時政による将軍排斥の企てが明るみに出るに至り、閏7月19日に政子と義時は結城朝光や三浦義村らを派遣し、将軍・実朝の身柄の安全を確保。時政についていた御家人らの多くも政子と義時の側に与し、新将軍として擁立される運びであった平賀朝雅も京で討たれた事で、企ては完全に頓挫し時政の政治生命も絶たれる結果となった。
進退窮まった時政は、翌閏7月20日に牧の方と共に出家し、やがて鎌倉からも追われる身となった。そしてそのまま二度と幕政に復帰する事はなく、隠棲の地である伊豆国北条にて腫物のためこの世を去った。時に建保3年正月6日(1215年2月6日)、享年78歳であった。
時政の失脚後、2代目の執権には息子の義時が就任し、北条氏の権勢はさらに増していく事となるが、時政の孫で3代目執権である北条泰時の治世下では将軍殺害を企てた謀反人として、義時を初代と見做す形で仏事も行われずその存在を否定されるなど、牧氏事件を始めとする一連の謀略で晩節を汚した代償は、時政の死後もなお長きに亘って尾を引く事となったのである。