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赤橋守時

あかはしもりとき

鎌倉幕府最後の執権。室町幕府初代将軍・足利尊氏の義兄。
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概要

生没年 永仁3年(1295年)~正慶2年・元弘3年(1333年)5月18日
 得宗北条氏の分家・赤橋流北条氏3代・赤橋久時の嫡男として生まれる。弟に鎌倉幕府最後の鎮西探題・赤橋英時、妹に室町幕府・初代将軍足利尊氏の正室・赤橋登子、甥に室町幕府第2代将軍・足利義詮、初代鎌倉公方・足利基氏がいる。

赤橋流・北条氏

 鎌倉幕府・第2代執権・北条義時の三男・重時が屋敷を鶴岡八幡宮の赤橋に置いたことにちなみ、重時の子・長時(第6代執権)から守時の甥・重時まで5代にわたって「赤橋」を称した。北条氏庶流諸家のうちでも家格は高く、長時、守時が執権を、曽祖父・長時、祖父・義宗、父・久時の3代にわたって六波羅探題に任じられ、守時の弟・英時も鎌倉幕府最後の鎮西探題となったが、幕府滅亡時に大友貞宗・小弐貞経らに攻められ自刃、守時の甥・重時は、建武弐年(1335年)伊予で挙兵したが敗北し、一族は滅亡した。

足利氏

 清和源氏、源義家の孫・義国が足利荘に土着したことに始まる。保元の乱のおり、足利義康は源義朝と行動をともにし、源平の争乱のおりには義康の子・義兼が源頼朝の挙兵に従い、北条時政の娘を妻とした。以後、北条氏と姻戚関係を結んで重んじられ、上総・三河の守護となった。

生涯

 徳治2年(1307年)10月1日、13歳で従五位下左近将監に叙任。
 応長元年(1311年)、評定衆に加えられる。
 元応元年(1319年)、足利貞氏の嫡男・又太郎が15歳で元服、従五位下治部少輔に叙任され、執権・北条高時から諱「高」を与えられて「高氏」を名乗り、守時の妹・登子を娶る。
 正中元年(1324年)9月、後醍醐天皇による討幕計画が発覚、計画に加担した天皇の側近・日野資朝が佐渡に流され、もうひとりの側近・日野俊基も捕らえられるが許されて帰京し、天皇は幕府に謝罪文を提出することで決着した(正中の変)。
 嘉暦元年(1326年)、高時が病に倒れ出家、新たな執権として一門の長老・金沢貞顕が就任したがすぐに辞任し、守時が執権職に就くこととなった。
 元徳3年・元弘元年(1331年)4月、後醍醐天皇による幕府打倒の計画が発覚し天皇の側近・日野俊基・文観らを六波羅探題が逮捕し、日野俊基は鎌倉、捕らえられていた日野資朝を佐渡で処刑、文観は硫黄島に流されることとなった。8月、後醍醐帝は京を脱出し山城国の笠置に拠ったが幕府の大軍に攻められて敗退、後醍醐帝に呼応した楠木正成の赤坂城も落城し、正慶元年・元弘2年(1332年)3月、幕府は後醍醐天皇を廃して持明院統の景仁親王を即位させ(光厳天皇)、捕らえられた後醍醐帝は隠岐に配流されることとなった。
 正慶元年・元弘2年末、後醍醐帝の皇子・護良親王吉野で、楠木正成が河内国で挙兵、護良親王の令旨を受けて赤松円心も兵を挙げるなど各地で反幕府の動きが強まる。
 正慶2年・元弘3年(1333年)閏2月、後醍醐帝が隠岐から脱出して伯耆の豪族・名和長年に身を寄せ、幕府打倒の綸旨を各地に発した。(この時の綸旨には「執権・赤橋流・北条守時を討伐せよ」とは書かれておらず、「得宗・北条高時を討伐せよ」と書かれていたらしい)これに対して幕府は名越高家、足利高氏を大将として大軍を派遣したが、高家が久我畷で討死すると高氏は丹波で天皇側に寝返り、円心らと六波羅を攻略した。
 一方、関東では新田義貞らが挙兵し、高氏の嫡男・千寿王も合流、討幕軍は千寿王を旗頭として、5月18日、鎌倉へ侵攻、守時は前線で軍を指揮したが敗れて自刃、残された一族や御内人も、5月22日、東勝寺において自刃し幕府は滅亡した。
 なお、守時の妻であった後家尼には朝廷から伊豆国三浦荘内の田地一万疋を知行させるという後醍醐天皇からの綸旨が与えられており、倒幕の功労者である足利尊氏による計らいがあったのではないかと言われている。

関連タグ

太平記 鎌倉時代 鎌倉幕府 執権 北条高時 足利尊氏
勝野洋・・・大河ドラマ『太平記』における守時役。

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