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赤橋守時

あかはしもりとき

赤橋守時/北条守時とは、鎌倉期の武将・政治家。鎌倉幕府最後の執権にして、足利尊氏の義兄としても知られる。(1295年-1333年)
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概要

生 没:永仁3年(1295年)-正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日)
官 位:従四位上、相模守

北条氏の分家のひとつである赤橋流の4代目当主。弟に鎌倉幕府最後の鎮西探題・赤橋英時、妹に赤橋登子がいる。また登子の嫁ぎ先である足利高氏(尊氏)は義弟に、その子息である義詮基氏は義理の甥に当たる。

守時の生まれた赤橋流北条氏は、北条長時(第6代執権、守時の曽祖父)を祖とし、その父である重時(第2代執権・北条義時の三男)の起こした極楽寺流の嫡流としても位置付けられていた。北条一族全体を見ても、本家たる得宗家と同様に元服に際して将軍を烏帽子親とし、偏諱を受ける特権を唯一有するなど、得宗家に次ぐ家格であった。

生涯

第3代当主・赤橋久時の嫡男として生まれる。徳治2年(1307年)10月1日、弱冠13歳にして従五位下・左近将監に叙任し、応長元年(1311年)には幕府の政務機関である評定衆に、本来経るべき引付衆へと就任する事なく加えられている。若年でありながらもこの破格の待遇であるのは、前述した通り得宗家に次ぐ家格であった事に因るところが大きいと見られている。
嘉暦元年(1326年)、時の幕府執権・北条高時の辞任・出家に端を発した、得宗家内の内紛(嘉暦の騒動)に際し、第16代執権に就任する。これは当初、高時の後任として執権職についた金沢貞顕が、内紛の当事者の片一方である北条泰家(高時の弟)やその一派からの抗議により辞任を余儀なくされた事を受けてのものであり、言ってしまえば火中の栗を拾うも同然の形での執権就任であった。また執権とはいえ、内実は高時の嫡男・邦時成人までの中継ぎに過ぎず、幕政の実権は長崎高資らを筆頭とする寄合衆によって掌握されている有様であった。

折しも守時が執権に就任した頃は、朝廷内での後継争いに端を発して諸国で倒幕の機運が高まりつつある時期でもあった。正慶2年/元弘3年(1333年)には伯耆の船上山に拠る後醍醐天皇や、名和長年らを討伐すべく派遣された足利高氏らの軍勢が、丹波にて幕府に反旗を翻し六波羅探題を攻略、京都を制圧するという事態が発生している。またこれと前後して、尊氏の下に嫁いでいた妹の登子、並びに甥の千寿王丸(後の足利義詮)も鎌倉を脱出しており、守時はこれらの責任を取らされる形で、高時より謹慎を申し付けられた。
一方、関東では新田義貞らを中心とした倒幕軍も鎌倉へと迫りつつあり、名誉挽回を果たすべく守時は倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出陣、鎌倉防衛の要衝の一つであった巨福呂坂で新田勢を迎え撃った。この防衛戦において、守時は新田勢の糸口貞満と65合も斬りあうなど一昼夜に亘って激戦を繰り広げ、その果てに子の益時と共に自刃したという。享年39。一説によれば、高時の思惑に配慮して退却せずに死を選んだという。鎮西探題を務めていた弟の英時も、兄の死より1週間後に博多にて倒幕軍との戦いの末に自害しており、赤橋流もここに滅亡を迎えた。

守時の死、そして鎌倉幕府の滅亡後、守時の妻であった後家尼には伊豆国三浦荘内の田地一万疋を知行させるという、後醍醐天皇からの綸旨が与えられている。これは倒幕の功労者であると同時に、義兄を死に追いやる格好となってしまった足利尊氏による計らいがあったのではないかと言われている。

関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 執権
北条高時 足利尊氏
勝野洋 - 1991年放送のNHK大河ドラマ太平記』における守時役。

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